美声のよろめき

 美声フェチなのだそうだ。
 ある占い師にいわれたのである。
「あなた、いい声の人に弱いでしょ」
「え。そ、そういえば。なんでそんなことまでわかるんですか」

 この占い師はすごい。何がすごいって、私のこの最近5ヶ月をすべて予言しているのである。あれは、忘れもしない1998年の師走の30日。私は、とあるデパートの占い師のところに行ったのであった。というより、吸い込まれた、といったほうがいい。その当時、私は仕事の問題で悪いほうの「究極の選択」をせまられていた。考えるのも滅入る選択であった。そんなとき、ジダンがバロン・ドールをとったというので、気晴らしに『フランス・フットボール』誌を買いにイエナまで行った帰りにそのデパートを冷やかしていたのであった。なんと、気がついたらその占い師の前に座っていたのである。

「あなた、今年、最悪じゃありませんでした? もう、笑っちゃうくらい」
座ったとたんこうである。
「これは3年前から始まって、今がどん底ね。でも、大丈夫。全部(来年の)1月で終わるから。リスクの高い方を選んで大丈夫よ。あとは楽しい日々が待っているわ。」
「はあ」
そして、まず、私の過去のことからあれこれしゃべりだした。例えば、「8年前に結婚の芽があったわね。でも、その時結婚してたら、今年離婚してたわね」確かに。別れたのは8年前だが。結局は縁がなかったということか。「職業は、何か作る仕事だわね。文章とか、絵とか。これは適してるからお続けなさい」(それは心から、ありがとう)だの、いついつにどういう仕事があって、どうのこうの、家族がどうのと何も言わぬのにどんどん言い当てていく。つけ爪をしている他は、何の変哲もない30代の女性である。髪が長く、細面。よくある占い師のようなけばけばしい化粧や衣装ではいない。話ぶりも淡々としていて、イントネーションも普通の人と何一つ変わらない。それがなおさらぞっとさせる。むろん、私は真っ青である。「この人一体なに? なんなの」そのうちに、彼女は未来のことを話しはじめた。1999年の2月のこの辺にこんなこと、3月にどういう人にあって、4月にはこれこれでと、仕事がああで、出会いがこうで、だから……と立板に水。今、思えば、恐ろしいことにそれはこの5ヶ月間で全部実現されているのであった。

「あなた、いい声の人に弱いでしょ」
散々あれこれ予言した果てに、別れ際にこういわれた。
そういえば。
 私のつきあった男性から、尊敬する人、あこがれる人といった類の男性はみな美声であった(ちくしょう過去形だ)。性格や趣味、国籍までも違えども、共通項はただその一点。
 では、音楽では、ボーカルものが好きなのかというと、そうではない。音楽の趣味からいうと、私は皆さんご承知のとおり「ビル(・ブラフォード)命」であることからわかるように、「リズム隊」本位なのだ。リズム隊が私好みでありさえすれば「お気に入り」になっているのだった。次に歌詞、そしてアンサンブル。私にとってのボーカルはアンサンブルの1パーツなのである。(もちろん、だからこそしっかり歌ってもらわねば困る)この図式の最もいい例はブランキー・ジェット・シティであろう。あそこのドラマーとベースは鉄壁だ。もう、涙がでるほど凄い。でも、ボーカルは音程が悪くてもう大変なんである。でも、このボーカル君はギターが上手い。リズム感も悪くない。3人のアンサンブルはもう涙なしではきけませんよ。あの、日本人ばなれした素晴らしいグルーブ感は。そこで、ボーカルがどんなに音程を外そうとお釣りがきて、「いいさ、いいさ。ひとつくらい欠点がないとね。ここは“耳”をつぶろう」なんて点があまくなってしまうのであった。もう、でも、待てよ。リズム隊がそれほどでもなくても好きな芸能人はいるな。
 それが、モリッシー、ブレッド・アンダーソン(スエード)などの美声の持ち主である。私はモリッシーを聞きながらよく昼寝をする。「ガールフレンドが昏睡状態になっちゃった。でもしーらない。ぼくあの娘がだいっきらーい」とか、「他の女の子より大きい女の子もいればー」とか、「貧乏人は一生貧乏、はじめ貧しきゃ終わりまでー」とか、「こっくりさん、こっくりさん。ボクのあの人はどこー」とか、「ハルマケドンよ早く来い。この陰気な町をぶっこわしておくれー」などと歌っていようとも熟睡である(注:これらの引用はすべて歌のサビの部分である。ふざけたことに)。至福である。ボタンを押すとモリちゃんがしゃべるというマシンが欲しいと本気で思う私である。それと、私はアニメや洋画など吹き替えものが結構好きである。声優さんの美声に「しびれる」のである。それに、ああ、語りの芸術、文楽はもうマニアであった(私の好きな住太夫さんは自分のことを悪声というが、美声だと思うけどな。)そうか。そうだったのか。私は美声フェチ。まてよ、そういえば、今の上司もなかなかの美声の持ち主である(昨日気づいた。面と向かって言ってみたが「早く仕事をしろ」と一蹴された。ちえ)。朝から晩までひたすらひたすら原稿整理をするという(3千枚以上あるのだよこれが)、修羅場の状況に何の疑問も抱かずに、うっとりとなすがままになっているのが、その美声のせいだとしたら、私の病気は根が深すぎる。ああ、年下の美声に蹂躙される私。(おまけ。ドラマーだけどビルも美声だよ。知ってた?)
 さて、女性ボーカリストはどうかというと。これはいろいろですな。同性なので結構見方はシビアかもしれない。一貫した好みというものはないようだけれど、しかし、音楽がユニークなものに傾く傾向はある。ケイト・ブッシュに始まりシェニード・オコナー経由でビョークに終わるようなパターンですか。コクトー・ツインズとかシェルラン・オルフェンなどのバンドのフェアリーボイスは無条件に好きだ。ただ、コブシ系はちょっと苦手だ。ホイットニーとかああいうのはだめ。クラシックでも、古楽か、ドイツ・リート、フランス歌曲くらいまでで、どうもイタリア物はうけつけない。
 そういえば、ここのところ、日本では若い女性ボーカリストがずいぶん元気なようだ。宇多田(字はこれでいいっけ?)ヒカルとか、ミーシャとか、ひとところのコムロ系より声の質がウエットでのびがあってよろしい。目下、私の今のお気に入りはボニー・ピンクだ。ただ、この3人に限らぬことだが、彼女たちの若さが災いしているのか、歌い方に多彩さがない。シングルで、1曲だけ聞くぶんには大変素晴らしいのだが、アルバムで3曲も続けて聞くと、歌い方がどの曲も似かよっていてもういただけない。力を抜くところがないのだ。まあ、それはまだ、声帯が成熟していないのかもしれないので、時間と経験が解決していくことであろう。彼女らは、黙ってても洋楽は聴いて勉強するであろうから、あえてクラシックから、エリ・アメリングやエマ・カークビーなどの歌も聞いて表情や強弱の付け方を勉強してほしいと思う。発声の仕方は違えども、ヒントにはなるはずだ。あと、彼女らはちょっと、言葉の発音に難があるように思う。日本語はもちろんのこと、英語もだ。特に英語では、アールとかけた母印が汚い。特にerやorの音の音が良くない。それと、believeのbeなどはどうも聞くに耐えない。しかし、これも時間が解決するであろう。彼女らが、言葉の重みと美しさに思い当たったとき、それはおのずと解決されるであろうから。
 ところで、ボニー・ピンクの「金魚」はひさびさに傑作だと思える曲であった。(私はあまり日本のものをチェックしないので、あんまりえらそうなことはいえないんだが)この楽曲は1998年の今ごろかもう少し後にでたように思うのだけど、はじめて聞いたときに、うなってしまった。サウンドはブリーダースの1枚目をもうすこし重くした感じで、ベース、ドラム、ギターの編成。このシンプルさゆえにいやおうなく耳はボーカルに引きつけられていく。そして、妙な詞に、つい何かをする手を休めて聞き入ってしまうのだ。(プロデューサーの手腕にChapeau bas ! : 脱帽)
 詞の概要はこうである。(以下著作権の問題があるので、説明的にしてあります)まず、自分を「プール」金魚に見立て、自分の居る場所は「あなた次第」なのに自分の思い人は自分のプールに泳いではくれず、泳ぐ姿は「幻」……とまあ酬われない恋の歌なのであるが、なぜ、金魚がプールに泳ぐのか、金魚鉢よりは広いが、なんでまたプールという人工的で限定されたところで泳ぐのか。言葉の選び方のあまりの乱暴さ。したがって、繊細な文学的匂いは皆無なのだが、それがかえってシュールで「前衛的な文学」という危うい位置にただよう。そもそも大前提が「自分が金魚」なので、設定はとってもロマンチックで曖昧。そんな世界にストレートな物いいが展開するというこのミスマッチ。思い人の「辞書にこっそりと『永遠』と書」くのだが、もし自分が邪魔なら「文字ごと」返せという(金魚なのに)。要するに、ファンタジーと比喩と暗喩と(人間であるところの)現実が4行ごとにごちゃまぜになって出てくるという、フランスのシュールレアリストでもこうはいくまい。それが、「このメロディーしかないぞよ」というまことに詞にぴったりのメロディーラインで押し出されてくるのである。そして、楽曲を支配する「彼に選ばれなかった」娘の悲嘆とあきらめ、なげやりさ、でも不思議と未来には別の出会いがありそうな、どん底の次にやってくる浮上の気配も感じ取れるボーカルライン。どこかで、ボニー・ピンクはとても若い(二十歳になるかならないか)という記事を読んだのだが、彼女の若さと(恐らく)楽観的な性格が、「恋人に選ばれない自分」を絶望たっぷりに表現しようとしても、どこかに「希望」のような生命感を匂わせてしまうのかもしれない。
 こういう楽曲を作れるのは今だけかもしれない。そして、声がやがて成熟してしまい、技術も身に付いてくると、こういう歌い方はできなくなってしまうのかもしれない。ほんとうに、原石の輝きというのはこういうことなのかもしれない。今を去ること20年前、ケイト・ブッシュが、18の時に作ったファースト・アルバムでもうすでに完成されていたのふと思い出した。しかし、この原石は、それとはまるで別次元の、美しい色を放っているように思える。
(1999/5/11)