ビアリッツの海

 ひと月にいっぺん、モデルさんに来てもらう。
 大学を卒業してからずっと続いている習慣である。だから、ヌードデッサンはちり紙交換に出して、何か引き換えに貰えるほどある。しかし、ここ3年間というもの、経済的な理由で頼めなくなっていた。今年になって、幸いなことに有る程度の期間定期収入を得られたのでまた頼むことにした。
 しかし、人間一度穴に落ち込むとそこからはい上がるのは大変である。特に、技術的な仕事ではなおのこと。
 わたしは毎土曜日に少数の大人を相手にデッサンを教えているので、全く絵から遠ざかることはなかったが、それでも、新しい作品を産みだそうという気になれない「空白」と思われる時期は丸々1年間はあったろう。そこから抜けて、バリバリ描いていたときのメンタリティと技術のポテンシャルを取り戻すまでに2年かかった。そして、ようやく以前の調子を取り戻して、いよいよモデルさんを前にして思ったことは「借金してでもモデルは頼め」だった。
 とにかく、数ミリではあるが、手元が狂うのである。そして、描く速度が遅くなっている。それを修正するのために、しばらくのあいだは2週間ごとにモデルさんにきてもうことにした。そして、手元の誤差がなくなり、勘が元に戻るにはさらに3回ものセッションが必要だった。セッション一回あたりモデルさんには6ポーズ(20分が1単位で、休憩をはさんで6回行う)してもらうから、18ポーズ、9時間必要だったのである。運動選手が走るのをやめてしまったらなまってしまうように、画家がデッサンを止めてしまったら終わりである。特に、わたしのように人間を主に描いているものは、生身の人間を描かなくなったらさっさと筆を折ってしまったほうがよい。アイデアはいつ何時湧き出るかわからないから、それをいつでも具現化できる確かな技術がなければ、創作以前の技術的問題で呻吟して無駄に時間が流れるだけである。

◆◆バスク地方へ◆

 「空白」から抜けた瞬間はいまでもありありと思い出せる。日にちも特定できる。なぜなら、それはフランスでスケッチをしていたからである。いや、正確にはスケッチを仕上げていたのである。

 レギュラーの職を突然失い、派遣で翻訳の仕事などしていたわたしは、すっかり精神的にまいってしまい、軽い鬱になってしまった。それで、翌年の2月、何もかもやめて、フランスに逃げ出した。そして、フランス人の友だちの家を転々とし、しまいに、スペインとの国境地帯、バスク地方をさまよった。受難の時期である。
 ヨーロッパにはバスク人という固有の文化をもつ民族がスペインとフランスにまたがって住んでいる地帯がある。ピレネー山脈をはさんでフランス側をフランス・バスク、スペイン側をスペイン・バスク、という。これはカタロニア人も同じく、ピレネー山脈をはさんで、スペインカタラン、フランスカタランと、別れて住んでいる。カタロニア人は、フランスに住んでいても、カタロニア語を捨て去ることは少ない。しかし、若いフランス・バスク人は、バスク語を捨てる、というか知らないケースが目立つという。これは、有る時期まで地方言語を学校で教えるのを禁じていたフランス政府の巧みな教育政策によるところが多かったようだが、現在では、こうした地方語は公立学校でも教えて良いことになっている。
 わたしは、フランスでもそういった少数民族のいる地帯に興味があり、フランスに行くとかならず一つは訪れることにしている。最初は、アルザス、そしてカタロニア人のいるペルピニャン、オック人のいる内陸西南部、そして、バスクである。そこには固有の文化があり、気骨がある。そうした人々と語り合うのは楽しいのだ。
 バスクの中心都市であるバイヨンヌはすてきな町で、食べ物もおいしい……とにかく、フランスというのは、隅々の国境地帯のぎりぎりに至るまで、飲食してまずいものはないとかんがえてよいが、隅々の国境地帯のぎりぎりに至るまで、犬の糞がごろごろしていることもまちがいない……。
 バイヨンヌというと、某ハム会社のハムを思い出すのだが、果たして、ハムが名物である。ちょうど謝肉祭のときであったので、お祭が派手にやられていた。謝肉祭は、仮装大会でもあるので、それぞれが趣向をこらす。わたしは、旅行費用が安くすむこともあり、この時期に訪れることが多いで、いくつかの町の謝肉祭に遭遇しているのだが、バスク人のそれは、とくに力のはいったものだった。昔の民族的故事に基づくような仮装も目立っていて、民族意識の高さを物語る。そして、いちいち通りすがりの旅行者であるわたしに熱心に説明してくれる。
 町でスケッチしていると、こてこて系のバスク人のカップルが話しかけてくる。風貌をみれば、こてこてのバスク人か、バスク語もわからないバスク人の子孫かがわかる。こてこての方は、だいたい黒いベレー帽を被っているのだ。顔つきもなんとなく濃い感じ、というか日本人がイメージする「ラテン系の人」という感じである。黒い髪にびっしり生えた黒いまつげのぱっちりしたお目目がいかにも情熱的である。
 こてこてバスク・カップルにわたしがバスク語のことやバスクのことを聞くと、熱っぽく語ってくれた。「われわれは、スペイン人でもフランス人でもなく、ただバスクだ」と。しかし、フランス人と共通しているのは、絵描きにとてもまなざしが優しいことだ。これは、フランスに住むどんな人にもいえることだ。とにかく、描いた絵を見たがる。そして、いろいろ批評して、最後は元気づけてくれる。
 そのカップルは別れ際、ついでにビアリッツに行ったら、というのでそうすることにした。宿のフロントのフランソワに聞くと、バスで行くと安いという。フランソワはとても親切で、ひとり旅のわたしにいろいろ気を使って、話し相手になってくれたり、古いフランス文法の本をくれたりした。ただ、フロントにあったアップライトのピアノがまるで調律されていないのにはびっくりした。ホンキートンク・ピアノなんて上品な代物ではなく、音が1音くらい違うんである。わたしに技術があれば、優しくしてくれたお礼に調律してあげたんだけど。
 このホテル、余談だが、バイヨンヌでも有数の古いホテルで、安い割りにはしゃれているのだが、実にお化けの出そうなところだった。わたしはそこの5階に泊まったのだが、屋根裏部屋に近いつくり、もちろんトイレは外である。廊下の床はみしみし言うし、廊下を歩いている途中で電気は消えてしまうし(*1)、部屋から古き町並みの家々の屋根はつらつらとみえるし、おあつらえむきに曇天だったりで、雰囲気は抜群。ここでラブクラフトを読んでいたら、もう、こわくてこわくてもうどうしようかと思った。怖くてトイレにいけないなんていう経験を久しぶりにした。日本ではそんなに怖いと思わなかった作品なのだが、やはり文学に雰囲気は大切なスパイスであるのだ。

◆◆真冬の大西洋◆

 さて、ビアリッツにバスでいくと、のっけからそこには大西洋が横たわってた。冬の曇天にどどーんと荒波が押し寄せてくる。この寒々しさはまるで冬の日本海のようである。そそり立った岩の岬には大きな十字架があって、観光客はその近くまで行くことが出来る。日本ではさしずめ、しめ縄に鳥居というところであろう。
 ビアリッツは大西洋に面したスペインとの国境に近い町である。本当は、というか、本来はニースのような高級リゾート地である。あちこちにたっている住宅もとても瀟洒ですてき。昔はお貴族様やブルジョワ階級が夏ともなれば押し寄せて、まるでヴィスコンティの「ベニスに死す」の世界が繰り広げられていたのである。従って、海辺に高級そうなホテルがいっぱい建っているし、カジノなんかもある。ブランド品の店が軒をつらねるところなど、まるでプチ(小さな)・パリを気取っているかのようだ。でも、そこはプチはプチ、謝肉祭の冬はシーズンオフで寒風ふきすさぶ閑散とした単なる田舎町である。そのくせ住民はバイヨンヌに比べるととってもお高くて、嫌な感じ。一体何を勘違いしているのであろうか。なにしろ、バイヨンヌとバスで30分くらいしか離れていないのである。
 理由のひとつは、わたしの服装がとっても汚くて貧乏臭いかららしかった。以前、パリのバカラ美術館の売店でガラス器を見ていたら、店員さんに「職務質問」された以来の屈辱的な視線を感じた。つまり、ここでは服装と財布の重さが正義のバロメーターなのであるらしかった。なにしろ、チョコレート屋のチョコの高いことと言ったら! しかし、バイヨンヌでは誰もが優しく親切でうるさいくらいだったのに、人々のこの冷たさはなんだろう。なぜかだんだん頭に来たので、スノッブで高級そうな「サロン・ド・テ(*2)」にどかどか入って「パシオン(受難*3)」とか銘打ってあった、フルーツ・フレーバー・ティーを頼んで、「蛮族」東洋の田舎者の図々しさを見せつけてやった。
 くやしかったら東京にきてみろってんだ。あんなイペール・アーバニズム(超都会空間)と雑居のモザイクなんかパリにもないぜ。

 気を取り直して海を見に行く。
 海の向こう、陸づたいにうっすら見えるのは、スペインか? そして海の向こうは英国である。飛行機や列車やバスをつかってやってさえ、なんとはるばるやって来たのかと思うのであるのに、昔の人は、大陸を縦横無尽に馬を走らせて戦をしたのかと思うと、驚き呆れる。 欧州の際(きわ)に来たという感慨と、寄せては返す乳緑色の波をみていたら、自然と画帖を広げて墨を擦っていた。水平線から産みだされる自然のダイナミズムは画家の魂を大きく揺さぶった。びょうびょうと冷たい潮風が頬を凍らせて、とにかく寒い。ついには雪が降ってきて、いよいよ凍えそうになったので画材を片づけた。
 食堂でカスレという南西部特有のスタミナ豆料理を食べてようやく暖まると、あとは友人の住むポーに向かった。
 ポーでは雨が降っていた。とにかくビアリッツの海のスケッチを仕上げたいと思ったので、友人が仕事に出かけてから画材を出して作業を始めた。

◆◆冬の終わり◆

 2時間ほどたったころだろうか、「自分」が天井のほうに抜けていった。
 そしてあれあれと思ったら、精神が澄んできて、いろいろな音がとても美しく聞こえた。絵筆を走らせると恍惚としてくるのがわかる。描線がすいすいと決まる。青色のなんときれいなことか。胡粉の白色は墨によくなじんで、胸にはじわじわと幸せが染みてきた。絵を描くのってなんて面白いんだろう。天井に抜けていった自分は、そうした自分を俯瞰していて、ああよかったと安堵しているようだった。
 時間にするとどれくらいかわからないが、そういったことがしばらく続いて、はっと思ったときは、天井に抜けていった「自分」がもとの鞘におさまっていた。そして、絵をみると、あとは仕上げの作業をすればよいだけの段階になっていた。
 昼ご飯を食べに、友人が帰ってきたのでそのことを話すと、「神秘的な話だと、たいそうびっくりしていたが、画家のわたしは、これで完全に立ち直ったのだ、と説明した。なにしろ、わたしは友人宅の冷蔵庫を総ざらいして、特製のオニオン・グラタン・スープとシーザーズ・サラダもどきと、超美味なニンニク風味のクルトンにロンといわれるトマトソースで煮込んだのベルギーのひき肉団子料理を作って、ワインを開けて、お祝いの準備をして待っていたのくらいなのである。友人はその付け合わせである。いや、もちろん大喜びで一緒に祝ってくれたけれども。
 実は、このトランス状態のようなことは、作品を仕上げるに当たって、かならずやってくる現象であったのだが、生活の状況が悪くなるにつれ、やってこなくなってしまったのだ。わたしはもう絵を描いていくことができなくなるのではないか、と絶望感におそわれていた。しかし、神様はまだわたしを見捨てなかったようだ。
 その後、ペルピニャンに寄った。ペルピニャンの謝肉祭は、三角の頭巾で顔をすっぽり覆って、眼だけだしている人が練り歩くという、異教徒のわたしから見るととても恐ろしい感じの行列があるのだが、それはもう終わってしまっていた。でも、カテドラルではなんとおあつらえ向きにもバッハのマルコ受難曲をやっていた。マルコ受難曲とはめずらしい。マタイ、ヨハネの両受難曲と違って完全に曲が残っていないということであまりやられないのだ。満員札止めといわれたけれど、しぶとく受け付けで粘っていたら、なんと超良席にキャンセルが出て聞くことができた。わたしは自分の受難に終わりが来たのだと噛みしめながら聞いていた。受難曲は長い。4時間も延々続くのだ。しかし、冬の終わりは必ずやって来る。そして、あとは太陽の光輝く復活祭だ。そう思ったら晴れ晴れとした。
 それからパリに赴いた。街角の彫刻からカフェの食器からなにからなにまで輝いて見えた。地下鉄の職員の何気ないポーズも、道路標識も、犬の糞さえも画題になるように思われた。

 今年ももうすぐ謝肉祭である。
 そうだ、謝肉祭にはビアリッツの海を思いだそう。フランス製の高いチョコレートとフレイバー・ティーとバイヨンヌ・ハムも。もちろん受難曲を聞きながら。

(2001/01/21)

*1 フランスの廊下の電気はスイッチを入れてから一定の時間が経つと消えてしまう。ちなみにスイッチはあちこちにあるので消えたらまたつければいいのだが、最初はとてもびっくりする)
*2 サロン・ド・テ:所謂おばさんのティールーム。パリのみならずフランスの町ならどこでもある紅茶とお菓子の喫茶店。雰囲気的には三越のティーサロン。ロココ調の調度品が目印です。
*3 パシオン:パッション・フルーツのフレーバーティーだったんです。ま、店の意向は「情熱」てことです、もちろん。