音の媚薬

 家族に病人がでたので、携帯を買った。これだけは、持ちたくなかったものだが仕方がない。私のPCはポータブル(Macintosh PowerBook)で、常に持ち運びしているのに、なんで携帯電話が嫌かというと、自分の意志とは関係ないところで呼び出されるのが嫌なのである。ただ、仕事柄いつかは持たないとまずいかな、とは思っていたので、まあ頃合いなのではあろう。
 私は、生まれも育ちも東京で、幸いなことに、わりあいと広い家に住んでいる。そのうえ、収入が安定しないので、自宅住まいである。といっても、家族は西欧的individualiste(個人主義者)がそろっている、つまり自分勝手の集まりなので、全員財布が別である。飲む酒も別、趣味も別、活動時間帯も別、新聞も購読者の許可を得てから読むのである(念のため、我々はきわめて友好的なのであることを記しておく)。夕飯時に、それぞれが持ち寄りで(あるいは調理して)別のものを食卓に持ってきて一緒に食べるということも日常的である。まあ、そういうときは、お互いのものをつつきあうので、結構楽しい食卓になる。このような家族であるので、皆さんが思い描いているような経済的恩恵はなしである。しかし、ひとたび病人がでると、そこは最若年者の私が奔走することになる。この10年間で、祖母、母、父と、もう病人は3人目である。従って、私も慣れたもの。慣れたものだが、こういうとき、バッグの中をみると、ビル・ブラフォードのCDが日に日に増えていく。私にとってのビルとは、そういう男である。「頼れるのは自分だけ」。そういうときに欲しくなる男なのである。
 私は、俗にいう「癒しの音楽」というのが大嫌いである。そんなものは人によるのであって、音がない状態が一番癒される人もいるだろうし、大音量のヘビメタで癒される人もいるわけで、いわゆる穏やかなクラシックの室内楽やら、G線上のアリアやら、モーツァルトのピアノソナタやら、ショパンのノクターンやらをつなぎ合わせて、お仕着せの「癒しの音楽」というパッケージで包み、売ったところで、癒されているのはレコード会社の担当者のサラリーマンとしての義務感だけであろう。
 昨年、私は「喜怒哀楽」を失う、という精神的危機を体験した。それは、いろいろな問題がこの3年間という短期間に一気に押し寄せ、出口なしの閉塞状態を形成したため起こったことであった。私の本質は芸術家であるから、感受性を失うということは「死ね」といわれることと同義である。私の創造のパターンは、体験、感応、分析、構成という過程を経て生み出されるものであって、どれ一つが欠けてもうまくいかない。特に、感応、感じることは最も重要なファクターである。また、絵を制作しているとき、いよいよ完成一歩手前になると、あるものがやって来る。それは、ある種の陶酔感をともなう神秘体験だと解釈しているのだが、それもやってこなくなった。いよいよ神様にみすてられたかしら。そう思い始めたとき、私に救いの風穴を開けてくれたのは、ラベルのソナチネの中のある和音であった。ある日、いつものようにピアノを練習していて、その和音にたどり着いたときの、えもいわれぬあまやかな感覚は筆舌につくしがたい。そのとき、私は「救われたかも」と思ったのだった。その曲はもう長いこと稽古をしていて、いまさらなんでその和音なのかは良くわからない。しかし、音色というのは、その時々違う色を持っているのであって、その日はその和音と音色が私の心の渇きにしみ込むおいしい水のようなものに変化したのであろう。そんな和音ひとつが、私を癒すなどということが、誰にわかろうか。
 私はこのように音に感応するようだ。というと、おおげさだが、もっと下世話な話で、つまり、音で「イケテ」しまう、極めてリーズナブルな体質なのであった。それは「美声のよろめき」の中で「美声」に弱いということを書いたので、だいたいおわかりなことと思うが、人の声に限らず、楽器の音色でも「イケテ」しまうのである。コルトレーンのサックスとか、楽器としてのバイオリンとか、ロックとか、ジャズといったジャンルからそういうのはよく言われることであるので、敢えてクラシック・ピアノから挙げるとすると(つまり、もっと他にあるわけである。しょうもない)、「イケル」双璧は、ホロヴィッツの弾くシューマンのクライスレリアーナと、グレン・グールドの弾くスクリャービンのソナタNo.3であろう。
 ホロビッツのクライスレリアーナの録音は数種類あるが、私がイケルのはただ1つ。1969年、ニューヨーク録音のものである。この演奏に限られるということでわかるように、音でイケル条件というのは、楽曲本位でも演奏者本位でもないという点だ。楽曲、演奏などが呼応して生み出される化学反応の結果なのである。それは、演劇が結界をはった場の中で産みだされる空間芸術であるのに似ている。劇的なるもの、それは、脚本本位でも、役者本位でもない。場のいろいろなファクターが絡み合って起こる瞬間魔術なのである。ホロビッツという人は、こういう場を支配する魔術的な魅力を持った人であると思う。
 ずいぶん前の2度目の来日コンサートに行く機会があった。1度目のときに、体調が悪くて、吉田秀和に「こわれた骨董品」と評されたのが「幸い」して、2度目のときはわたしでも手がとどく値段のチケットだったので行かれたのだ(それでも、ワンピース一着分の値段であった)。そのときの演奏は、たいへんすばらしいもので、私は興奮のあまり、友人と渋谷のドイツレストラン・ラインガウで白ワインをしこたま飲んだ憶えがある。なにしろ、第1部と第2部の間の休憩で、観客がそわそわと会場を歩き回るのである。その歩き回り方が尋常ではない。ただただ物もいわず速足で歩き回るのだ。確か、第1部の終わりはスクリャービンの練習曲だったと思うが、私はトランス状態になるかと思ったほどであった。音で魂を引き上げられているような感覚。霊的な、という言葉がぴったりの魔術であった。第2部はモーツァルトのソナタやら、ショパンの英雄ポロネーズやら、おなじみの曲ばかりだったのに、最初はそれが何の曲だかわからない。ホロビッツだ、ということだけ。すでにピアノの音であるということも認識できない。何か、美しい音色が鳴っている。この程度。彼の音色は独特のファンタズムにあふれている。鴉の濡れ羽色というであろうか。つややかな音色はそれがピアノであるということも忘れさせるほどの独自の響きなのである。そして、弾きだしてからしばらくしてから「ああこの曲しってる。なんだ。この曲か」と、思うという……知っている曲も別の曲に聞こえてしまうのだ。そういう経験は他のピアニストではそれ以前も以後もないことである。コンサートが終わると、客はロックコンサートのように、舞台になだれこんだ。これも、ほかのクラシックのコンサートではないことだ。ワンピース一着分のチケットで理性を失う、それほど興奮したのである。
 クライスレリアーナは、芳しさに満ちた真っ赤な大輪のバラの茂みの、花のひとつひとつを素手で掻き散らしていくかのような楽曲である。ただでさえ、悩ましい、と思うのであるが、どうもピアニストには照れがあって、なかなかそういう風には弾いてくれない。しかし、69年録音のホロビッツのそれは、背中や腰や胸を愛撫されているような感覚に陥るのである。専門的なことをいうと、声部のそれぞれに異なる音色を持たせる(同じピアノなのに)ということをやってのけている。シューマンの楽曲というのは、メロディーが何層にもなっていて、美しい水面のようなものを形成し、そこから、最も美しいメロディーがセイレーンのように飛び出してくるのがその特色となっている。そのセイレーンと水面の音色を、あたかも別の楽器で奏でているかのように演奏してる、と考えていただければよいかと思う。その、水面とセイレーンが愛をかわす恋人たちのように、たゆたい、たわむれ、笑い、うっとりする、そんな光景を想像できる上に、自分のあちこちも触られて抱きしめられているかのような感触に支配される演奏なのである。
 さて、グールドの方だが、彼は生涯独身で、『最後のピューリタン』なんて本もでたくらいの女っ気のない男だった。さりとてホモセクシュアルかというと、それはどうもわからない。薬マニアだったようではあるが……。その演奏は色香とか芳香というものとはほど遠いときもある。また、彼のモーツァルトは霊的とはほど遠い。本人はショパンが大嫌いで、絶対弾かなかった。しかし、ロマンチストではあったと思う。というのは、彼のブラームスやら、シベリウスやらグリークは文句なく泣けるので(実は私は以前、大失恋をしたときにこれを聞いてさめざめと毎夜泣いていたのであった)、あんまりピューリタンだなんて決めつけるのは可哀想かと思う。ただ、うなりながら弾いたりするので、好き嫌いは別れるところだ。私は彼のことを少しカリスマ(アイドル)扱いしているところがある。それは、彼が少年時代、美少年だったこともある(その後サル顔になってしまった)。だから、高校生のとき、彼の急逝の報にはらはらと清らかな涙を流したものである。ところが、4・5年前だったと思うが、バッハおじさん(以前務めていた新聞社でCDを貸し借りするというバッハ仲間。バッハと美声とスポーツとF1とデカダンについて語り合う同胞。ともに「イチローを見守る会」を結成している)が「中嶋さん、中嶋さん、グールドのね、ビデオ、貸してあげようか」と、ビデオを貸してくれた。私は泣いた。私のグールド様は単なるおちゃらけ芸人だったのだ。しゃべる、弾く、しゃべる、弾く、しゃべる、弾く、これではクラシック界のさんまではないか! 彼は、ご親切にもわざわざ私のグールドのイメージをゴジラのごとく破壊するためにそのビデオを貸してくれたのであった。
 それは、そうと、本題のスクリャービンである。スクリャービンはかなりマジな神秘主義者で、7色の色彩のでる楽器を考案するとか、結構笑かせてもらえるエピソードの持ち主である。彼の晩年(といっても43歳)に11歳の少年だったホロビッツが訪ねてレッスンを受けている。ホロビッツの魔術的芸風と、スクリャービンのマジの神秘主義は見事に合わさり、名演奏が数多くある。ホロビッツの偉いところは、魔術師のくせにちっともオカルティストの自覚がない、というところである。天然ボケならぬ天然オカルト野郎なんである。ぼけぼけしながら一番神秘的なところをついてくるという。だからホロビッツ自身も、弾くとみんながかならずトランスになるスクリャービンを弾くのが面白かったらしく、スクリャービンの録音はたくさんのこっている。だから、このソナタNo.3も弾いているのだが、この曲についてはグールドの方が成功しているように思っている。
 スクリャービンの楽曲の特徴は、右手と左手の拍子が常に違っているということである。右が4拍子で左が9拍子だの、11拍子だのということはざらであり、弾いていてたいへん面白い。このへんてこりんな感じで、なんとも言えぬ粘りと悩ましさが醸し出される仕掛けになっている。私の憶測だが、スクリャービンは、エロティシズムこそ神秘体験につうじるものだと考えていたのではないか。各楽曲はロマンティックで、なかなか美しく、小品などはなかなかスピリチュアルなものを感じさせる。
 グールドはおちゃらけ野郎ながらもこのソナタNo.3に関してはかなりマジに弾いている。特に第4楽章のじらしにじらす長い抑制の助走から、一気に駆け上がり爆発するクライマックスは、なかなかエロティックである。天空をかけぬける天使のイメージもあるが、愛の歓びというイメージの方がしっくりくるだろう。今となっては、グールドがなぜこんなエロティックな曲をやる気になったのかわからないのだが、この楽曲に関しては、何か純愛めいたものを感じ取ることもでき、単なる官能の泉というよりは、成就した愛の喜びという清らかさが、グールドによって上手い具合に現出されたのかもしれない。
 ところで、バッハでイクのは不可能か? そんなことはありません。ピアノに限ると、ワイセンベルグのJesus, joy of man's desiringというプゾーニやリストの編曲による楽曲のオムニパス・アルバムは何気に悩ましいですよ。
 あ、最後に。私はピューリタンではありませんので。ご心配なく。(1999/5/30)