犬の生活

 三崎町の出向先から神楽坂のプロダクションに呼び戻された。
 わたしが駿河台の月刊誌の仕事を定期的に手伝うことになったので体制をみなおさなければならなくなったためである。

 呼び戻したのは、神楽坂のわれわれのチームの元締めの仕切り人、女顔氏である。
 そもそも彼は、われわれが今取り組んでいる事典のプロジェクトの依頼主である三崎町の出版社の美声氏と旧知の間柄であった。実は、彼らの編集者としての姿はその一面にすぎない。実は芸術村の芝居部落に住んでいる「演劇者(えんげきもの)」なのであった。その縁で三崎町の美声氏の会社との共同作業が実現したのである。
 女顔氏はある劇団のオリジナルメンバーで元役者、現在もその劇団の制作にかかわっている。元役者だけあって、なかなかの美男子。ちょっぴり強引で実践主義、決断力のある、ある意味で男っぽい人である。ナイーブで無口な、いわゆる「男は黙って」タイプの美声の上司とは好対照である。ちなみに、女顔氏の奥方も我々のチームの一員である。これがまた、髪の毛のさらさらとした細面の、笑顔のチャーミングなかわいらしい人である。最初、われわれのプロダクションではめずらしい「普通の人」かと思っていたら、ひょんなことから彼女はゲームのファイナル・ファンタジーをやり込んでいる事実が発覚した。かくて、わたしと彼女の間では、魔法使いや、召喚魔法の呪文が飛び交うこととなった。彼女は主に校閲をしているが、女顔氏の片腕として、データ入力や修整もこなしている。
 いままでわれわれは神楽坂と三崎町に別れてやっていたので、原稿の内容面の整理をしていたわたしが神楽坂にもどるということは、現場仕事をほぼ神楽坂に引き上げたということになる。おかげであの美声を毎日聞く楽しみがなくなってしまった。まあ、同じ職場にいても、もともと無口な人なので、なかなか「お耳にかかれない」のではあるが。そうだ、電話ごしに聞くというのもなかなかすてきなので、睡魔に襲われたら、無理やり用事をつくって電話をしてみよう、って、ほとんど相手の都合を考えてないな。

 そういうわけで(どういうわけだ?)、体制がかわっても、三崎町の仕事はまだまだ続くので、三崎町の美声氏はときどき原稿配達人になって神田川を渡り、神楽坂を上がってくる。

 常々、わたしは美声氏はどこかボヘミアンなところがある、と感じていた。会社に属しつつも、その属している自分をどこか憎んでいるようなふしがある。実際、外見は日本人ばなれした癖毛のほかは、今どきのフツーの若者なのであるが。会社でも、会社員として礼節をわきまえ、美しい日本語をあやつり、八方に気を使い、上手く立ち回っているように見える。が、そのジーンズのおしりはほつれて穴が開いているのである。そうそう、癖毛といえば、わたしは、天然縦ロールというものが、出来うるかどうか実験したくて、なんとか、せめて肩までは延ばしてもらいたいと思い、ことあるごとに彼に長髪の勧めを説いていたのだが、最近ばっさり切ってしまって、頭だけすっかりブリッティッシュ・トラッド坊やになってしまった。かくして画家の邪心は崩れ去ったのであった。
 わたしが三崎町で仕事をしていたころ、美声氏は「神楽坂に行ってきます」と嬉しそうにいうと、そのまま帰ってきたためしがなかった。神楽坂のプロダクションは、出版・印刷物の校正、書籍の編集などを手がけているが、そのメンバーひとりひとりはフリーランスの寄り集まりで、プロダクションの仕事をするかたわら、芸術村に属している人間も数多い。だから、その雰囲気はいわゆる一般的な社会の枠から遊離している野太さがある。いわゆる、丸ノ内の住人には、すさんだ輩と評されであろう。保険もなく、貯金もなく、明日の生活の保証もない。しかし、おそらく、その「すさんだ」においが、ボヘミアンである美声氏には快いのだろう。
 ちなみに、神楽坂の三崎町チームのメンバーは、みな別の顔をもっている。すでに書いたように女顔氏は演劇者(えんげきもの)だし、メインのプログラマーは、大学に籍を置くマルクス・エンゲルス研究者(余談だが、なんと、彼はわたしの友人の友人だった! なんと世間のせまいこと)だし、わたしは画家だし。
 
 先日プログラマー氏に、

 ここでは裏の顔を持っているものがマジョリティーなのである。

 と、しれっと言われ、マイノリティーに悩んでいた以前の自分から、もはや完全に切り離された自由を感じた。自由にはリスクがつきものだが、そんなことより、なにしろ、一生は一度しかないのだ。
 そういえば、唐十郎の戯曲の台詞で「名はひぐらし。その日暮らしのひぐらしです」っていうのがあったような。なんていう戯曲だったっけ?

 さて、神楽坂のオフィスは二つのビルに別れている。メインのオフィスとMac部屋である。女顔氏のいるところはMac部屋なので、わたしは行ったり来たりしている。メインのオフィスでは通常の編集や校閲業務、Mac部屋では、ずらりとならんだMacintoshを使ってDTPの作業をしているのだ。
 個人的には、ラジオがかけっぱなしで、MacがごろごろしているMac部屋の方が和むのだが、狭いので、Mac部屋のスタッフが全員そろうとこちらは居場所がなくなる。そこで通常業務はメインのオフィスでやることになり、行ったり来たりすることになるのだ。

 ところで、Mac部屋には犬がいる。

 部屋のスタッフの一人が飼い主で、一緒に出勤してくるのだ。種類は、白地に黒斑の、あのディズニーの101匹わんちゃんの、あれである。大型犬だ。雌なのに、名は風太郎という。みんな、ふうちゃん、と呼びかわいがっている。すらりとしたプロポーションのなかなかの美形である。しっぽは短くて、動きに表情がある。そういえば、アニメのコジコジのしっぽの動きにそっくり。目は灰色がかった水色で、ビー玉のように透明感があってとても美しい。テーブルに座って、ゲラを整理していると、寄ってきて、頭をテーブルにのっけて「あそんで、あそんで」と上目遣いにする。頭をなでてあげると、やっぱり上目づかいで「ありがと、ありがと」とわたしをじっとみる。あれ、こんな目をどこかでみたことがあるなあ。どこでだっけ? そんなことより仕事、仕事。

 おや、ラジオからスウェードの「トラッシュ」が聞こえてきた。
 
  多分これは僕らの異様な雰囲気のせい?
  それとも多分、多分僕らが育った希望なき街のせいかも
  僕らが育った夢なき街や携帯電話のうつろな響きのせい
  多分これは僕らの無軌道さのせいかも
  
  でも(連中によると)僕らはクズ、君も僕も
  僕らは微風にさえ飛び散る厄介者
               [trash]*
  
   
「トラッシュ」は、一般人からみてすさんだ人々とされるバンドマン、ワーキングクラス、芸術家、など人々に対するクズ呼ばわりを、いっそ開き直ってあかるく、たのしく、さわやかに歌い上げてしまったという傑作だ。英語の歌詞をきかなければ、明るいラブソングかと、思ってしまうほど、さわやかである。トラッシュ(クズ)も、光の当て方を変えれば宝石になるともいわんばかりの、確信に満ちたポジティブなつくり。
 ここのところのスウェードは、歌詞を以前のような観念的な言葉で飾り立てることをしなくなった。そして、楽曲自体も以前のような隠微で耽美なサウンドのベールに覆われることもなくなり、よりストレートに表現するようになったように思う。これはわたしはバンドの進化ととらえているのだが、オリジナルの主要メンバー、バーナード・バトラーが抜けたことを境に変化を余儀なくされたバンドが出した一つの答えなのだろう。

 スウェードはおそらく、90年代のブリティッシュロックを象徴するバンドのひとつになろう。その骨格は、ボーカルのブレット・アンダーソンと前記のギターのバーナード・バトラーとの作詞作曲コンビで成り立っていた。1992年5月、ファーストシングル「The Drowners」が英NME誌で初登場一位。これ以上にない華麗なデビューであった。
「大衆を堕落させたい」と豪語し、異常性欲、変態的恋愛を歌い、黒髪のワンレングスも悩ましい、美形で美声のブレット・アンダーソンは「歩く発禁男」といわれたものである。バーナードのギターのラインととブレットのボーカルラインは、まるで鉄条網でできた鞭と紫のつる薔薇が絡みつくかのような妖しくも美しいアラベスクであった。その甘やかな陶酔感は、世紀末の媚薬とはこのことか? と思わせるに充分だった。その鉄壁のコラボレーションは80年代のスミスにおけるモリッシーとジョニー・マーのコンビ再び、という幻想を抱かせた。しかし、94年、彼らの関係は悪化し、コンビは崩壊してしまう。すわ解散か、と思ったのもつかの間、弁護士の息子の美少年、リチャード・オークス(当時17歳)を新ギタリストに据え、セカンドアルバムをたずさえて、ともかく2度目の来日するも、ブレットは腹がぽっこり、ほおはぷくぷくに太っていた。その上、タオルを背中にまわし、まるでお風呂の背中をあらうがごとき妙なパフォーマンス(ダンスらしい)を繰り広げたかと思うと、ステージ中央ですっころぶ、という醜態。ああ、あの美貌は、世紀末の貴公子ぶりは、もののあはれはきわまれり(よよよ)。
 しかしその後、ブレットは、彼の悪口雑言をプレスにわめきちらすバーナードを尻目に、作曲とバンド建て直しとボイス・コントロールとダイエットに執念を燃やし、さらに新たに作曲もできるキーボードをメンバーに加え、リターン・マッチにその刃をとぎつつ、2枚のアルバムを仕上げたわけである。今になって、バーナード在籍中の初期の音を聞いてみると、ブレットのボーカルは現在の方が数段上手くなっており、バンドはよりソリッドで若々しい新鮮な音で一体感が増し、完成度が増したように思う。
 バンド再建当時のブレットのインタビューを読むと、とにかく、どんな状態でも、作曲は続けねば、というようなことを言っていた。創造することをやめてしまうことの方が、彼にとってはパートナーを失うよりも大きな恐怖であったのである。
 
 実は、この週末に、スウェードのギグがあった。

 赤坂ブリッツ6時スタート。
 バーナードの離脱から早5年、ブレットの執念のパワーが形をとり、ひとつのまとまりを持つには十分な年月。
 ブレットは黒い半そでの前開きのシャツと黒いボトム。髪の毛は短く刈り上げ、ボディはもとのスリムな体形に戻っていた。長身に長い手足。なんといい男だろう。(後の情報によると、翌日のギグではなんと、脱いだらしい。行けばよかった)
 声は、天性の美声にさらに磨きをかけ、最初から最後まで崩れることもなく、声量も充分。しかも、彼は笑顔まで見せている。笑顔さえ! 斜に構えた最初の来日の時の彼からは考えられない! そして、バーナード脱退後の糸の切れた凧のようなあのブレットとも! あくまで自然体で元気に跳びはね、音楽をやっている喜びにあふれているその姿は、危機を乗り切り、一つの結果を出した人間の放つ輝きであるのだろう。
 
 スウェードの音楽の底流を流れているものは逆転の美学である。
 退廃を美に、という通俗的なイメージの転換がそのデビューであった。歌の主題はもちろんセックス。これは、ある意味では簡単な手法である。自分もヌードを描くのでわかるのだが、セクシュアリティというのは、割合簡単に形になるものなのだ。ただ、それを継続させるとなると、ある仕掛けが必要になってくる。つまり、理性的な創造性といったものである。耽美的なもの、というのも、そういう資質があれば、割合簡単に形になる。つまり、これはデビューとしては申し分ないが、いつか変化を求められる脆弱で短絡的なスタイルであったのだ。

 それが、主要メンバーの脱退という目に合い、自らの創造の危機に直面し、解散の2文字が頭をよぎりつつもそれを乗り越え、とにかく前進あるのみという結論に達して踏みとどまった彼は、光の当てようで物事が異なった形をとる、というコロンブスの卵を手に入れたのである。
 すなわち、終わりは始まりに、別れは出会いに、クズは宝石に、毒は薬に、停止は復活に、そして、すさんだ者は華麗なるもの、美しきものに、と。
 
  スキン・ヘッズ、レイヴ中毒、ピル愛好者
  みんな時間を持てあましている奴らばかり
  バンドを組みギャング団に入ろう
 
  ほら、奴らがやってきた。華麗なる者たち
  華麗なる奴らが
                [beautiful ones]**
                
              
  彼女はスター・クレイジー
  電気ショックにあったような忌まわしい髪
 
  80年代は連日寝ころんで暮らし
  90年代には行くべき場所もない
 
  彼女は教育なんて望んじゃいない
  何ひとついいたいことさえない
  イマジネーションも致命的に欠如していて
  (連中によればね)
              [starcrazy]***

 ラジオのブレットの声にうっとりしつつゲラを呼んでいると、おや、スカートになにかが入っている。ふうちゃんがスカートの中に入ってきたのだ。ふうちゃんは、みんなと遊びたがる。好奇心もおう盛。ただ、人のスカートの中に顔を突っ込むのは困る。もう! しっぽふんずけちゃうよ!
 でも、ふうちゃんは子供じゃない。彼女は最近女の子になった。飼い主氏の家の白いソファーを紅に染めたらしい。お陰で、ふうちゃんはおむつをさせられている。これは犬用の紙おむつで、しっぽのところが出せるように、丸く穴が開いている。わたしははじめ、人間の赤ん坊用のおむつかと思っていたのでおどろいた。考えてみたら赤ん坊にはしっぽはない。この、おむつ姿はとても変だけど、後ろからみると、ふるふる震えていてかわいらしい。飼い主氏に「生理中の女の気持ちがわかったでしょ」というと、「女っていうより、おむつ替えたりして、赤ん坊といっしょだよ。犬の世話はもう愛だけ。愛」という。まあね。でも、うっとおしそうでしょ? この暑いのにさ、何日もさ、ねえったら。ちくしょう、ぜんぜんきいてねえな。
 夕方になると、ふうちゃんはお夕飯がもらえる。入り口のサッシの戸とテーブルでバリケードのようになっている壁らしきものの間にふうちゃんのお皿があって、ドッグフードを入れてもらうとあっというまに空になる。それがおわるといちもくさんに部屋の真ん中のテーブルの下にしつらいられた、ふうちゃん用のトイレに鎮座ましまして、おしっこの時間。ところが、きょうは、おむつがあるので、なんか奇妙である。おむつがびしょびしょになったので、飼い主氏がおむつを換えようとすると、あれあれ、とたんにうんこをぼろぼろと………。ふうちゃんはおむつをしていたので、いままでがまんしていたようなのだ。さて、おむつをかえてもらって、トイレも掃除してもらって、おなかも一杯だし、ふうちゃんはもうごきげんさんで、もう至福の表情でゆったり横になっている。
 しかし、ふうちゃんはいいなあ。まんま食べて、うんこして、おしっこして、またあした。
 犬の生活は、飼い主の無償の愛情にささえられているとすると、その逆もありなのではないかと思った。愛にささえられたふうちゃんの姿をみるのがまた、幸せだと。では、愛にささえられていない姿は?
 
 ふうちゃんが飼い主氏と帰ってしまっても、われわれの残業は続く。事典の編集作業は根気がすべてといっていい。とにかく、ゲラの数は3500枚である。われわれもいいかげん疲労のピークだが、ここのところ、三崎町の美声氏が「残業ホルモン」に冒されて、元気がない。
 残業ホルモンに冒されると、まず判断力が鈍る、隣の芝生が青く見える、切れやすい、なげやりになる、喜怒哀楽に乏しくなるなどの症状が続く。冒されやすいのは、普段から物分かりのいい人。兄弟がいるばあい上から2番目の人は要注意だ。これに打ち勝つにはもう免疫力をつけるしかない。すなわち「もう終わりにして飲みに行こう注射」を打つのである。これを発動できるのはいくつもの修羅場を経験した剛のもののみである。なぜなら、このホルモンに冒されると、仕事を延々つづけてしまう、という傾向があるからだ。すなわち「仕事をすれば、出口が早くみえるかも?」と思ってしまうのである。これは一見正論のようで、まったくの誤りである。かえっていばらの茂みに分け入ってしまうのである。実は、わたしも新聞社時代、このホルモンに冒された経験があるのでわかるのだ。そうなると、泥沼である。家に帰っても寝つけず、別の活字を欲する。『銀河英雄伝説』やら『アンジェリク』の類いの長編小説をだらだら読んでいるうちに、夜はしらじらと明け、また会社に向かい仕事をするのである。三崎町の美声氏はわれわれの上司というかたちをとってはいるが、われわれの中では一番年若いから、すっかり残業ホルモンの餌食になってしまったのであった。
 そこで、ある日、彼が原稿を持って、とぼとぼと神楽坂をあがってくると、女顔氏が「もう終わりにして飲みに行こう注射」を発動したのであった。おお、流石! 

 酒の席で、美声氏が憧憬をこめて、ふと
 「芝居をやってる人間が一番すさんでいる」とつぶやいた。
 彼の瞳は弱き光を放っていた。
 わたしはなぜかふうちゃんの上目使いの、あの無垢なる感謝の瞳のありかを思い出した。それは単に、ある日、三崎町であまったお菓子を彼にあげたときなのだが、そんなとき、ふうちゃんみたいに上目使いの、明るい目をしたことがあった。
 なぜ、そんなことを思い出したのだろう。それは、たぶん、今の瞳の輝きの弱さのせいだろう。
 しかし、明けぬ夜はなし。闇が深いほど、明け方の光は美しいもの。
 飛ぶ鳥にもきっと悩みはあろうぞ。
 
(1999.09.23)

文中引用 *、**、*** BY BRETT ANDERSON、訳詞:児島由紀子