マージナル

 仕事がなくなるとフランスに出かける。少なくともこの3年はそうである。
 そうすることで、自分の精神のバランスを保つことがようやくできている。フリーランスというのは、聞こえがいいが、リスクばかりで成り立っている。仕事のないときは、それこそ本当に暇だが、いったん入れば寝ているとき以外は仕事をする、という現実がある。それで、実入りがいいかといえばそういうことはまずない。どこのオフイスや編集部にいってもお客様扱いであるが、それは文字通りのお客様であると同時に「よそ者」を意味する。であるから、仕事の切れ目が縁の切れ目、ということがほとんどである。フリーランス同士というのは、同じ職場でも表立ってはあまり話をしない。最近はe-mailなどで、同業者同士、地下ケーブルでやりとりするようになったが。出版社というのは一見この手のテクノロジーに敏感かと思われがちだが、社内LANなどを引くのはわりあいと遅く、コンピューター環境の整備においては一般企業の方が進んでいると言わざるを得ない。
 昨年、食うに困って普通の派遣会社に登録したときはびっくりした。
 その派遣会社では原則的に、申請した者は全員登録できるのだが、スキルチェックと称して3時間もかけて試験をされたのである。
 一般教養、心理テスト、英語(なぜかフランス語などの他言語のテストはない)、そしてコンピュータースキルのレベルである。
 コンピュータースキル・チェックでは、タイプの速度と精度のレベル(1分間に何語タイプし、うちミスがいくつとでる)、そして、数字入力の速度と精度のレベルが実際にコンピューターを使って行われる。私の場合、幸いなことに、どれもそこそこの経験(しかも修羅場)があったので、それほど悲惨な結果にはならなかったが、経歴書には、どのアプリケーションのバージョンがいくつ、どのOSが使えて、コンピューター使用経験は何年、インターネットの環境下で働いたことがあるか、そして、具体的にやったことのある業務などを細かく記入させられる。職種によっては、特定のアプリケーション(表計算ソフトやワープロソフトやDTPソフト)を使ってレベルをチェックされる。そこを全部クリアーしてある程度のレベルと認定されても、面接でやれ年齢が高すぎる、やれ編集の仕事はない、といわれてしまうのである(後でわかったのだが、仕事がないのではなく、そこの派遣会社が出版業界にパイプがないというだけの話であった)。しかし、経験と年齢というのは、比例するものであって、ただのいいがかりをつけられているとしか思えない(それにしても、一体企業に勤めている社員で、同じテストをして、どのぐらいの結果が出せるものなのか、参考程度に知りたいものだ)。
 さらに、3時間の研修というものを受けさせられる。これには閉口した。まず、交通費を申請するために記入する用紙に、私は、青い万年筆を持っていたのだが、それで記入したところ、黒いボールペンでなければならないという。どういう根拠なのかひとつもわからない、というか、説明もできない様子だった。ボールペンも青しかなかったので、隣の人のを借りなければならなかった。
 そして、お辞儀の練習にはじまり、自己紹介、言葉遣い、お盆の持ち方、お茶の出し方……軍隊である。その派遣会社にバブルの頃から登録している友人に聞くと、昔はそんなことはなかったという。
 運良く、あるアメリカの医療機器会社のマニュアルの翻訳・編集業務をその派遣会社に紹介され、行ってみてびっくりした。職場環境は私の勤めていた新聞社のそれより数倍進んでいた。アメリカの本社とも回線がつながっているし、電話も留守電付きだ。もちろん、ひとりひとりがパーテーションで区切られていて、スペースも広く、働く環境はとてもよい。新聞社では、論説委員級になっても、机を並べて仕事をしているというのに。私は大きな部屋で、机を並べてむさくるしく仕事をしている出版社の環境しか知らなかったので、本当に驚いてしまった。
 実は、私の現在の入っている出版社は、小〜中規模の会社であるので、効率化をすすめるために、コンピューター関連の環境も相当進んでいる。そこで、ひょっとすると、大きいところほど「王宮化」がすすんでいて、下僕をたくさん使った手作業を尊ぶ傾向があるのかもしれない、と最近は考えを改めたのだが、昨年の、アメリカの会社に派遣された時点では「新聞社箱入り娘」だったために、その米国企業の有りように大変驚いてしまった。

 話が大幅に横道にそれてしまった。そうして、派遣会社に登録して、働きにいくにしろ、現在のように特定のプロダクションに所属して派遣されるにしろ、直に仕事をもらってその「飯場」(新聞社方言で、編集部のことをこう呼ぶ)に赴くにしろ、どこに行っても社員の人たちとは距離感があり、都合、猫をかぶり続けることになる。だから、長期に及ぶ仕事をする場合は、どうしてもスタンスの取り方が難しく、孤独感にさいなまれることになる。なにしろ、実働時間が異常に長い種類の職であるのに、いつまでたってもよそ者なのだから、猫をかぶり続けるのもたいへんなのである。知らず知らずのうちに、ストレスが溜まっていくのだ。
 で、仕事が切れると、フランスに行く。そこなら、最初から最後まで異国人のお客様だからだ。いっそのことそのほうが潔いのである。日本だと、そこまで割り切れない事情の複雑さがある。それに、会社員だと突然洋行するなど、そんなことはできまい。フリーランスならではのアドバンテージを行使する優越感を満たす一瞬でもあるのだ。しかし、基本的に貧乏だから、往復の飛行機代と毎日の食費くらいしかない。まあ、困ったら、路上で絵でも売ろうなんて、思ってるから、気楽なものである。それにしても、ホテル代なんかないから、友人のところにころがりこみ、居候させてもらうかわりにドメスティックな日々、つまり、料理、洗濯、掃除の日々を送るというのが、だいたいのパターンである。
 
 昨年は、親友のアンリが、トゥールーズに住んでいたので、ずっとトゥールーズにいた。彼は、歴史の先生で、現在はポー大学で教鞭をとっている。
 彼と友達になったのは、数年前に彼が私に手紙をくれたからだった。

「僕はホモセクシュエルなのですが、友達になってくれますか」

 要約するとこうである。今思えば勇気にあふれた、そして、なんという真摯でかわいらしい手紙であろうか。彼は、それについてずっと悩み、その当時やっとカミングアウトをするようになったのだという。

「さらにいうなら、僕はフランスに住むカタロニア人です。我々は、一般のフランス人とは異なる文化、言語を持っています。つまり、僕は二重の意味で社会におけるのけ者(PERSONNE MARGINALISEE)だといえましょう」

 フランスはヨーロッパの本土の形状から別名「六角形の国(HEXAGONE:エクサゴンヌ)」といわれる。六角形のそれぞれの角には、フランスに併合された、あるいは独自の言語・文化をもつ民族が住んでいる。北の角にはフラマン人、北西角にはブルトン人、南西の角にはバスク人、南隅にはカタロニアア人、北西の角にはアルザス人、そして、コルシカ島にはコルシカ人が住んでいる(さらにいえば、南西の内陸部にはオック人も住んでいる)。これら少数民族はすべて、国境の向こうに同族が住んでいるのである。しかし、彼らはフランス語を話すし、大枠のなかでは、自分たちはフランス人だと考えている。
 フランスというのは、本土が大陸の中央にある、ということとあり、諸民族が通過する交差点に当たっている。さらに植民地政策などの歴史的背景もあり、アフリカ系、中南米系、アジア系とさまざまな人々が流れ込んでいる。人種差別、というのもあるにはあるが、日本よりも寛容である。もし、差別があるとしたら、学歴などで形成される職業などの社会階層的な差別などのほうが、人種上の差別よりも先にくるであろう。フランス人になるのは簡単である。帰化して、フランス語を話してフランス人のように生活すればよい。フランス人というのは、フランス語を話している人々の中で、フランス国籍を持っている人のことを指すのであろう。その中にアンリのように二言語併用者というのも含まれているのである。
 しかし、ご存知のように、コルシカ人やブルトン人やバスク人のように、過激に独立・自決を迫るような人々もいる。これは、民族問題のご多分にもれず、さまざまな歴史的事情があるのだが、アンリの属すカタロニア人というのは、現在は過激に目立った政治的な動きはみせない。これには、いろいろな事情があるが、あれこれ取材してみると、カタロニア人には、ダリとか、マイヨールとか、わりあいと有名人が出ている。それと、彼ら自身、中産階級の人が多く、経済的にあまり困っていない。そういう状況が過激な独立自治運動に走らないのではないか、という意見が多かった。アンリたち、フランコ・カタラン(フランスのカタロニア人)は、ピレネーのそばのペルピニャンというところに多く住んでいる。アンリもペルピニャンの出身だ。そして、ピレネーを越えたバルセロナにはカタラン・エスパニョール(スペインのカタロニア人)が住んでいる。彼らは、昔、アラゴン王国という国に属していたが、歴史のいきさつでピレネーを境にフランス人とスペイン人に別れてしまった。ペルピニャンには、アラゴン王の城があり、フランコ・カタランの象徴になっている。
 彼はフランスにおけるマイノリティーを嘆くが、ペルピニャンにおいてはカタロニア人がマジョリティーである。彼らの結束は堅い。アンリの父親は、フランコ・カタランで、母親はカタラン・エスパーニュである。従って、家族の共通言語はカタロニア語である。両親はフランス語を話すが、訛りがあるので、私にとって最初は意志の疎通が厳しかった。といってもこれは、パリでもありうる問題なのだが。パリでは、教育のレベルによって、フランス語の洗練度は異なっていく。われわれ外国人が学ぶフランス語というのは、最も洗練されたもので、いわばテレビやラジオのフランス語である。実は、これこそマイノリティーである。大学以上の教育を受けた人々は、そういうフランス語を話してくれるので、意志の疎通は難しくないが、実は、そんな人々こそすくないので、実際の生活の場(市場や切符売り場など)ではまったく意味不明の言葉を話されているように最初は思うものである。それに、パリ訛り、というのも存在する。さらに、高校生訛り(というか高校生しゃべり)というのも日本同様あって、これに関しては、フランス人でもわからないらしい。
 また話がそれてしまったが、そういうわけでアンリの家では、フランス語、カタロニア語がちゃんぽんになって飛び交うのである。フランス語を話していると思うと、突然わけがわからなくなる。そのわけわからなくなる言葉がカタロニア語なのだ。
 ペルピニャンにはスペインに住む他の民族も結構いる。わたしがアンリの家にお邪魔しているとき、バレンシアの方の人々の集まりというのに呼ばれた。彼らはカタロニア人ではなく、昔、カスティリア王国というのに属していた人々である。なんと、彼らは彼ら専用の寄りあい所を持っていて、そこでいろいろな催しをやっているのだ。私が呼ばれたのは、フラメンコの発表会だった。しかし、発表会が行われる前に、彼らの民族の歌(彼らは国歌といっていた)を全員起立で歌っているのにはおどろいた。彼らにとっては、アラゴンかカスティリアか、ということが大変な問題であるらしかった。もちろん、極東の地から来た私には、外見上はまるで区別がつかない。これが、インドだと、ターバンを巻いていたり、詰め襟の服を着て帽子をかぶっていたりするので、外見を見れば違い明らかなのだが、アラゴンか、カスティリアか、などと言われても、私自身は全く実感にとぼしい。
 フランスでは、こういう少数民族のほかに、元植民地の人々もいるので「ナショナリズム」ということには敏感だ。そうした市民シンポジウムはさかんに行われていて、わたしも参加してみたが、皆真剣で前向きに語り合っていたのには驚いた。それ以来、私自身も日本人であること、東洋人であることなどを、真剣に考えるようになった。

 アンリは新進気鋭の中世史の学者であり、たいへんな日本びいきである。そして、美術に明るく、現在は私の絵のもっとも良い理解者で、コレクターでもある。といっても、私は滞在費がわりにフランスで描いた絵を置いてきてしまい、彼は私が次に彼のところを訪れるまでにそれを美しく額装してくれるので、どんどん私の絵が増えていってしまうのである。しかし、事情が許せば、今手元にある絵の管理をまかせてもいいなあ、と考えてもいる。絵に関していえば、日本では私の絵はなかなか良い理解者があらわれない。フランスだと、アンリをはじめとしてなぜか大変に受けがいいので、私としても居心地がいいのだ。だから、将来はいっそのことフランスに絵を送ってしまおうかなどとも考えているのである。

 どうして、ここまで日本を見限ってしまったかというと、それはある変えがたい現実と現状の真実のせいである。それは、画廊のシステムというものが根底にある。
 日本の画廊には大きくわけて2種類ある。1つは貸画廊というもの。もう1つは企画画廊というもの。そして、この2つの間には暗くて深い川が流れており、お互いに交わることはない。英語で、川を渡ることをcross the river というが、これは万難を排しても渡るという、意志の力と困難と努力をニュアンスとしてもつ美しい言葉だ。しかし、どんなにがんばったところでこの2つの間を渡ることはできないであろう。努力と意志の力は全く消し去られる、全く異なる世界なのである。具体的にいうと、ある程度の実力があり、貸画廊を押さえる経済力があれば、個展を開くことはできるが、それだけである。貸画廊は基本的にスペースの賃貸所なのであり、それ以上のフォローはしないのである。
 一方、企画画廊の方は、というとどうであろうか。
 数年前のある日、私はある新橋の画廊に行った。そこは、いわゆる企画画廊で絵の売買に直結していた。主人に私は自分の作品を見せた。その感触は悪くなかったし、実際主人はかなり気に入ってくれたようだった。だが、そこの主人は、こういった。
「私がどう思うかということは別として、あなたには、5つの問題がある。そのうち4つはクリアーしないと、売ることができない」
 それはどういうものかというと、1つは、私が女であること。女は信用されない。結婚したり、出産を理由に筆を折るものがいるからだ。これは今更帰られない。ということは、あとの4つはすべてクリアーしなければならない。ということだ。
 2つ目は、私が特定の師匠をもたないこと。これは、日本画の場合決定的である。
 3つ目は(これは2つ目と連動している)大きな展覧会の団体に属していないこと。日本画の場合、セクト主義なので、誰かに師事していないと入選はできないしくみになっている。
 4つ目は、私の主題が女性のヌードであるということ。日本では、ヌードはまず売れない。これは、ヌードに限らず絵を飾る壁がないという住宅事情もあるが、重要なものは隠す、という日本人の美意識にも関係している。西洋の象徴主義では「真実」はいつもヌードの格好をしている。裁判所の前には秤をもったヌードの像が飾ってあるし、ヌードのデッサンなどは、よく寝室に飾られている。日本では、気に入ってもヌードだから飾れない、という理由で買ってもらえないことがままあった。では、何を描けばいいかというと、花とか風景である。
 5つ目は、私が象徴主義に傾倒しているからだ、という。これは、私が師匠から離反した(というか自然と離反するように水をむけられたのであるが)大きな理由だった。基本的に、意味性、文学性というものを現代の日本画では求めない。それは題名を見てもあきらかだ。「朝」だとか、「憂い」だとか、どうとでもとれるような題名がつづく。一度入選すると、同じ主題で書き続けるものもいる。パルテノン神殿を毎年同じ構図、同じ色、形で10数年出品し続ける人もいるくらいだ。画面構成のインパクト、というものが最も重視される傾向があり、意味性というものは退けられる。これは、日本における近代絵画が、印象派とよばれる絵画が生まれたころに始まった悲劇である。
 印象派を始めた人々は、それ以前のアカデミズム、こてこてにイコノロジーとマニエリスムに塗り固められた、すでに末期的な様相を呈していた象牙の塔を壊し、外へ出て風のざわめき、光と影、そういったものを感じ、それを感じたまま素直に表現ことを良しとしたのであり、感覚主義に走るには大きな理由と意義、アンチテーゼがあった。しかし、感覚主義、というものはイデオロギーを伴わないから、模倣するのは割合と簡単だ。良くも悪くも物事を曖昧にする日本人の感性にはしっくりくる。それに、西洋のイコノロジーなどしちめんどくさいものは、どう説明したところで、当時の人間はキリスト教でさえしらないのであるから(今も日本のキリスト教徒というのは1%にすぎない)、安易な感覚主義のみが切り離され根づいてしまったのであろう。そして、その感覚主義の源流がなんであるか、ということは誰も考えもしなくなり、芸術は感覚だとか、爆発だとか、その場、その場の都合で画面を構成する作家が続出したのである。

「残念です」
 その主人は言ったが、私はかえってさばさばした気分だった。
企画画廊に出せないとなると、この世界で生きていくことはできない。なぜか。それは、ジャーナリズムのせいもある。影響力のあるマスコミの美術記者というのは、企画画廊か大きな公募展しかみないのだ。貸画廊はほとんどみない。しかし、新聞社で働いていた私には、その理由はよくわかる。なぜなら、新聞社を目指すような人が、わざわざ美術記者になろうと思って、新聞社や大手の出版社を受験するだろうか。やはり、政治や経済や国際問題や社会問題を論じようと思って受けるのではないだろうか。そして、もし文化部に配属され、美術をやれということになったら、やはり手っ取り早く知るために公募展をみる、ということにならないだろうか。いかに公募展がセクト主義で、官僚的で、政治が先で、勲章が好きで芸術があとまわしになっているようなところでも。また、新聞社などには、事業部というのが別にあって、そういった大きな公募展の偉い人の展覧会をよく企画している。そういうものを批判することは、やはりはばかられるのである。つまり、外部チェック機能が存在しないのである。したがって、美術批評というものは日本では存在しない。一般的な美術愛好家は、ジャーナリストより絵を見る目があり、いろいろな知識を持っている場合がある。しかし、彼らは実際的な「力」を持たないので、アーチストのための精神的な支柱にはなりえるが、経済的、政治的な支柱にはなりえないのだ。
 さて、フランスでは、というとやはり有力な紹介者がいるにこしたことはないし、画廊の敷き居はやはり高い。画廊で売っている絵は、似たような現代美術が多いし、絵の値段も、日本の10分の1くらいである。表面上は日本と似通った現実があるかもしれない。しかし、売るために、ヌードを嫌うとか、女だからだめとか、先生についてないからとか、展覧会に所属していないから、という理由はまずあげられないであろう。それに、芸術家に対する精神的な地位の高さがある。どんな境遇でも、芸術家だとわかると、尊敬される。芸人、文筆業の類いもである。彼らは一般人ができないことをする人、物を作り出す人を尊敬する気風があるのである。もちろん、芸術家の生活は大変で、貧乏であることもわかっているが、それにしても、外で絵筆を握っていると、かならず話かけられ、握手を求められ、励まされる。彼らは、ピカソのような芸術家は100年に1人出ればいいと思っている。でもその1人を生み出すためには、たくさんの芸術家が必要なのだという。だから、がんばってくれ、というのだ。日本だと、絵書きです、というと十中八九眉をひそめられ、
「で、それで普段はどのようなお仕事についているんですか?」
または
「絵のことはわかりませんけど」
 とくるのだ。それがどんなに芸術家のモラルをさげ、やる気を無くすかということがおわかりだろうか。
 

 町から町へ旅行する金がなかった私は、ずっとトゥールーズのアンリの家にいた。毎日の食事を作ったり、掃除をするほかは、絵を描いたり、本屋に行ったり、古書フェアに行ったり、映画に行ったり……美しいトゥールーズの町で私の心はどんどん癒される。
 ある日、楽器屋で店員さんと話し込んでたら、貸しスタジオがあるという。トゥールーズは学生が多いので、こうした場所が安く借りられるのだという。私はピアノが練習したくなって、そこを訪ねることにした。
 電話で予約して、当日でかけた。
 スタジオは、セザンムといって、大きなプラタナスの並木が美しいマケット・アベニューにある。セザンムに行くためには、町の中心から市営バスに乗る。道がすいてれば10分でつく。最寄りのバス停は、マケット・アベニューのうらのバルセロナ通りにある。バルセロナ通りにはやはり大きなプラタナスが植わっていて、真ん中に水路がとおっている。ガロンヌ河から引かれている、細い水路である。水路の両側は散歩道になっていて、さらにその外側を自動車が通っている。並木道のバス通りといったところで、大変心のなごむ通りである。昔、おおやちきの漫画で、「並木通りの乗り合いバス」というコメディがあったが、それはこの通りのデジャ・ビューであろうか。トゥールーズの住民たちも、散歩をしたり、ジョギングをしたり、サイクリングをしたり、と思い思いに水路脇の散歩道を通っていく。水路には釣り橋もかかっていて、なかなかの風情である。時は3月。若葉が一斉に芽吹いて、水路に緑の影を落とす。
 イビサホテルの裏だというので、行ってみると、ガラス張りのエントランス。入るとコンサートのチラシやら、劇のインフォメーションやら、機材のコードが無防備に黒くて低いテーブルの上に打ち捨てられている。あちこちにアフリカの民芸品やインテリアが置いてあって、スタジオの無機的な雰囲気はない。ここでは劇の練習もできるようだった。
 レセプションのカウンターにはスキンヘッドで鼻にピアスの穴をあけた目つきの悪い小柄なお兄ちゃんと中南米がはいったドスのきいた声のファンキーなお姉ちゃんいる。一瞬びびってしまったが、
「やあ、おまちしておりました」
なんてやけに丁寧に言われて拍子抜けしてしまう。彼らはそのおそろしげな風貌からはおよそ想像がつかないほど物腰は優しく、親切で礼儀正しい。
 スタジオの使用者も初対面同士でもそれぞれ気軽にあいさつしたり、話をするなど、大変雰囲気がなごやか。芸事が好きな人はみんな仲間、という雰囲気が優しい。その後何度か行ったのだが、いつもこの感じは変わらなかった。
 セザンムには5つのスタジオがある。私の使用したものはそのなかでも最も小さいもので10平方メートルくらい。ドイツ製のアップライト・ピアノがある。練習室が1時間20フラン(約400円)で借りられる。ピアノの使用料は使用時間数に関係なく30フランである。キーの重いピアノで、まいったが、高音はなかなかすてきに響く。一番大きいスタジオは90平方メートルあり、1時間50フラン(約2000円)。アンプやライト、ドラムなどを使うと、オプションの料金をはらう。ただし、気密度が悪くて、隣の練習の音が聞こえてくるので、クラシックをまじめにやってる人には勧められない。私のピアノはお遊びなので、隣で、ナインインチネイルズをやってようが、レッチリぶちかましていようが、ジャズをやっていようが、構わない。逆に、みんながまじめに練習している雰囲気を感じて、ほほ笑ましく思ったりする。フランス人は、練習嫌いと聞いていたけど、なかなかどうして、真剣そのものである。
 私はその時丁度、ラベルの「クープランの墓」をさらっていた。ピアノの先生には、旅行中は楽譜のコピーを持っていって、ピアノがあったら弾くように、と言われているので、楽譜のコピーはいつも携帯している。それに一度、フランスでラベルを弾いてみたいと思っていたので、なんだかうれしかった。
 ピアノのあるスタジオは、薄暗く、寒かった。茶色い木彫のアップライトは古く、手入れがゆきとどいている、とはいいがたかったが、幸せだった。そういえば、バイヨンヌのホテルにあったピアノは、ここまで狂えるのかと思えるほど無茶苦茶に音が狂っていて、驚いたが、ホテルの持ち主は全く気に止めてないようだった。ピアノの手入れに関していえば、日本の方が大事に扱っているようだ。
 ラベルは、不思議な作曲家だ。私にはピアノ曲に関することしか言えないが、やればやるほど、スピリチュエルな世界へ入り込んでいく。冷たく、さえざえとしていて、楽譜は細部まで理性的で、論理的だ。しかし、音色は、実際に奏でてみると、これが同じピアノかと思うほど神秘的に響く。感情は全く抑えられているかのように見えるが、ちらちらと、青いほの暗い炎が見え隠れしている。曲想は徹頭徹尾ノーブルで、生活臭がなく、とりすましていて、どこをとっても美しく、見苦しくもだえ苦しむようなところは一切ない。しかし、その音符から立ち上ってくる香気には、ここフランスでの、木々の緑や、梢を渡る風、光輝く海や川面、雨に煙る夕暮れ、石畳に映る影、外燈のゆらめき、そんなもののひとつひとつに精霊が宿っているかのような気持ちにさせられるのだ。それにしても、ラベルの、作曲者の生まれた国で、その曲を奏でるということは、こんなに心を震わせるものなのか。和音が、紙に水がしみるように、空気にしみていく。
 ところで、フランス人のデモ好き、スト好きというのは日本人にいわせると迷惑以外のなにものでもでもない。その年は、ストの当たり年で、長距離列車の駅では、しょっちゅう列車のダイヤがかわり、ひどい目にあった。乗客もぶつぶつ言っているのだが、自分たちもストをするやもしれず容認している風もあって、怒りだすような人はいない。
 セザンムの帰り道、バスに乗っていたところ、客がわあわあ騒ぎだした。私は「そういえば、来るときとちがう道だ。突然右に曲がったぞ」と思い、隣にいた、金髪のざんばら髪、ジーンズの上下のワイルドなすこしブラッド・ピッドに似ているかっこいい兄ちゃんに「一体なにが?」と聞いたところ、「スト」とにべもない答え。
 客の中には老人も多くおり、「キャピトル!」「エスキロール!」とかしましい。キャピトルもエスキロールもともにトゥールーズの中心部の地名である。老人たちはそこに向かいたいようだった。トゥールーズの交通形態は京都のそれににている。地下鉄もあるが、街を縦断しているにすぎない。トゥールーズの主要な足回りはバスであり、とくに老人たちにとっての重要な足となっているのである。そうこうしているうちに、バスはガロンヌを渡り、地下鉄の駅、シプレン・レピュブリックで止まった。運転手は無言で乗客に降りるように促し、労働運動に向かってしまった。
 なんの前触れもなく、勝手にバスの道順を変え、自分の事情でつっぱしる。でも、ひょっとしたら、乗客には、このシプレン・レピュブリックで説明するつもりだったのかもしれない。いや、乗客にわあわあいわれて、渋々シプレン・レピュブリックで止ったのかもしれない。私は、バスの後ろの方にいたので、詳細は定かではないが、もし、乗客のなかで、一文無しがいて、地下鉄に乗れなかったら、どうするつもりだったのか。若者だったら歩けばすむかもしれないが、どう考えてもかなりのエゴイストである。労働者のためのストといっても、お客様は神様であるはずであるから、もっと事前になにかあってもいいはずだ。しかし、だいたいにおいて、ここフランスではなんでもかんでも突然で、説明なんてなにもない。
 
 アンリは、私が一人でふらふら遊び歩いているので、と、いってもほとんど散歩に近い、実に金のかからない遊びであるが、論文に追われて、缶詰めになっている彼にしてみればなんだか楽しそうに見えるのであろう。ある日、私はアルゼンチン人のマルセロに庭でバーベキューをやるので来ないか? とアンリとともに誘われていたのだが、翌日に担当教授とのセッションを控えていたので、その準備のため、アンリは泣く泣く諦めた。
 帰りに、アンリにバーベキューの残りを折り詰めに詰めてもらって、もって帰ってきたのだが、アンリはいらいらして待っていた。呼び鈴をおしても、
「どなたですか?」
なんていって中に入れてくれない。どうやらバーベキューを断ったのを後悔していたようだった。なんだか千裕はいつも楽しそう。それにひきかえ僕なんて、取り残されてひとりぼっち。ひとりで部屋で中世の本なんかうんとこさ広げちゃってさ。でも、こんな論文誰が読むの?教授と僕?いいんだ。僕なんて、いつだってのけもんさ。どうせどうせ。と、妄想は妄想をよび、すっかりいじけてしまったにちがいない。自分で断っといていい気なもんだが、男性のメンタリティというのははたしてこんなものかもしれない。
 それで、夜はアンリにつきあって映画を見ることにした。私は疲れていたのだけど、いいだしたら聞かないからしょうがない。道々、セザンムのことを話すと、アンリも行ってみたいと言い出した。ピアノの伴奏で歌うのが夢だったの、だって。
 そこで、翌日の夕方、一緒にセザンムに行くことになった。まず、楽譜屋で楽譜を物色した。アンリはバルバラを歌いたい、というので、バルバラの楽譜を探し出し、セザンムに乗り込んだ。
 私が伴奏をして、アンリが歌う。
 やったね。
 いちに、さん、はい。
 と、彼は勝手に歌う。伴奏を聴かない。全然聴かない。ひとりで突っ走る。
 そこで、指導をする。あのね、曲にはね、ちゃんと、リズムってものがあるの、拍子、わかる?
 いちに、さん、はい。
 まったく同じ。全然聴かない。あーもう。聴きなさいったら。低音がリズムなの。わかる?大きい音が、1拍目。
 いちに、さん、はい。
 駄目。まったく同じ。もう。
 アンリ、アーンリ、あんた、あんたね、大丈夫。ぜんぜんマイノリティーじゃないよ。カラオケやさんにいってごらんよ。世界中にお友達がいるよ。
(1999/8/5)