2月のフランスは寒い。車でもなきゃやってられない。
オリビエとトゥールーズに向かう。モントバンからメタリック・トヨタでオートルート(高速)をぶっとばす。160はでている。BGMはラジオ・クラシック。朝から晩までクラシックを流し続けるFM局である。おりしも、アルゼンチンのピアニスト、マルタ・アルゲリチとロシア系ユダヤ人のバイオリニスト、ギドン・クレーメルの鋼鉄デュオ。曲目はベートーベンのクロイツェル・ソナタである。これはよっぽど暴力的にぶっ飛ばさねばなるまい。
このコンビのこの曲は凄いものがある。10年程前のある日の正月、もちろん、東京で、家族マージャンをしていたのだが、音がないと寂しいので、テレビをつけっぱなしにしていたのだった。そうしたら、このコンビでこの曲が流れてきて、気がついたら、全員、ゲームの手が止まっていたのであった。なぜなら、そこで繰り広げられていたのは、クラシックというリングの上での格闘技が繰り広げられていたからである。
長い黒髪をおしげもなく振り乱し、腕よ折らんとばかりの情熱的なアルゲリチのピアノにまけじと、彼女を挑発し、引きつけておいて、鞭で打たんかのようなクレーメルのバイオリン。しかし、それは時に甘く、鋭く、滑らかにフロアーを駆け抜けるようなダンスにも似ていた。そこには、楽譜というルールこそあるものの、まさに真剣勝負の果たし合いにも似た雰囲気が漂っていた。
バイオリンとピアノのアンサンブルの場合、だいたい主従がはっきりしていて、ピアノはあまり出過ぎたまねはしない。「バイオリン・ソナタ」という銘が打ってあるわけだから、それに敬意を評して、たいがいピアノは従にまわる。また、バイオリンに比べると、ピアノそのものの音量が大きいので、ピアニストが全開してしまうと、バイオリンが負けてしまって音楽にならないのである。しかし、ことアルゲリチとクレーメルの場合は、両者が全開、もしくはそれ以上のハイテンションで最後まで対等なまま走り抜けていくのだった。私は、この演奏をみていて、この人たちはともに感応しあっているのだな、と思った。肌があうというのはこういうことなのだろうとも思った。なぜなら、お互いに対等で、一見情熱のつぶてを投げ付けあいながらも、ヒステリックなところは微塵もない。ただただこの曲に挑み、お互いに刃をかわし「おぬし、やるな」と視線をからませる。あとに聞いた話だと、果たして彼らはこの時期のセッションを通じて、私生活でもカップルになったということであった。
オリビエとは、まず、ニームでおち会った。彼はトゥールーズのミライユ大学で、中世の詩を学び、大学院を終えた後、ウーゼスという人口8千人弱の町で教育実習をしている。といっても、フランスの教育実習は日本と違って、学校を卒業してから、給料をもらいつつ、1年間にわたって行われる。その間、アンスペクシオンという、教育庁から意地悪な教官が何度かやってきて、授業参観し、点数とありがたい助言をいただくという監査をうける。監査は、だいたい意地悪で、もう一人の友人である、歴史家のアンリなんぞは、エコール・ノルマル出という超エリートだったため、かえってたいへんないびりにあってしまった。その点、風来坊で要領がよく、学歴もそこそこのオリビエは、すいすいと渡りに舟だったらしい。
ウーゼスには鉄道が通っていないので、オリビエと落ち合うには、ニームか、アビニヨンかモンペリエまで列車で出て、車で迎えに来てもらう必要があった。2月も半ばの夜8時、列車を降りると、オリビエが待っていた。
彼の父親はフランスの中南米の海外領土であるマルチニックの人で、母親はフランスは本土のカルカッソンヌの近くの人である。したがって、彼はマルチニックの血が半分流れている。肌は褐色で、髪はアフリカンのような天然パーマとマルチニック風だが、長身で、薄い唇、そして鼻はいわゆる日本人が「フランス人」というとイメージするような、高くて鼻筋がとおって……というふうに、エキゾチックな風貌をしている。どこの国籍でもそういわれてしまえば、そうかも、と思わせる。でも、もてまくりの優男という芸風はまったくない。根っからの文学青年で、新しい町に着けばまず本屋、古本屋、CDショップで両手いっぱい買いあさる。恋愛に関しては夢を見ているようなところがあり、全くの晩生といわざるをえない。そう。フランスの男性は意外と晩生でストイックな人もけっこういるのだ。オタク人口も日本より多いのではないか、と私は思う。
オリビエは父方の故郷であるマルチニックが好きだが、結局一家は本土に生活の場を置いている。フランスには、カラードや黒人はたくさんいる。宗教もさまざまである。ナショナリズム、といえば「フランス語を話す」ということでつながっている国民なのである。しかし、彼の姉は、その浅黒い肌を嫌っていて、ことあるごとに劣等感を訴えていた。オリビエも、外国に行きたいなあ、とぼやくことがある。まあ、オリビエの場合は、肌の色とかそんなことではなくて、生来のボヘミアン気質に根差したものであろう。彼は、人にとても気を使い、とにかく「こいつ、人格があるのかよ」と思うほどサービスをしまくるタイプなのだが、休みになると、ふらりと一人で旅にでてしまう。そして、音信不通が続くのだ。放浪する、ということが、彼のアイデンティティを保つ秘訣になのかもしれない。
私は彼より10歳も年長であるので、彼を単なるかわいい(けどでかい)弟とみているのであるが、果たして彼も悪い気はしていないようすだ。「よくきたね、僕のおねえちゃん」と、長い腕で私をすっぽり抱きかかえ、冷たい唇でほおにキスをすると、ひょいひょいと荷物を持っていく。(注*フランスでのキスは、唇以外はみな友情である。従って、単なるごあいさつ。誰にでもする。だが、私はこの習慣が大好きだ)。
ニームからウーゼスまで、車で30分。都会育ちの私はぶっとんだ。なだらかな丘陵地を行くのだが、途中から街灯が、ない。そこを130でぶっとばす。もちろん、対向車もいない。暗闇の中を盲滅法突っ走る感じ。ひえー。でもお陰で車の窓から冬の星座を堪能できた。丘陵地帯は畑で障害物がなく、プラネタリウムのようにぐるりと星が見渡せるのだ。空にはこんなに星があったんだとしみじみ思う。
ウーゼスは、内陸部にある乳白色の石造りの町で、古代ローマ人の香りを感じることができる。車で20分くらい走れば、世界遺産にもなったローマ人のつくった巨大な水道橋がある。天気は晴れで、関東のからっ風ならぬミストラルがふきすさぶ。時々粉雪が舞うが、空はなぜか真っ青。建物の乳白色とのコントラストが美しい。夏はさぞかしきれいであろう。そこを拠点に、車であちこち引き回された。小旅行である。そして、その最後が、トゥールーズなのだった。
トゥールーズは、私にもオリビエにとっても特別な街だ。オリビエは大学院の期間も合わせ、ミライユ大学に6年いた。そして、私は、フランスを訪れるたびに長期滞在をしている。友人が住んでいる、ということもあるが、近代都市の機能が、コンパクトに過不足無くありながらも、中世から連綿と続く古い街並みが共存しているその逆説的な点が惹きつけられる第一の理由だろう。名高い大学や高校が古くからあり、学園研究都市の側面もある。大学は普通の大学だけではなく、美大、音大もある。そういうわけで街は若い学生であふれていて、停滞ということを知らない。映画館、美術館、本屋が軒をつらねているが、過剰さはない。必要なだけあるという感じ。それらは、大学生や研究者が多いだけあり、どこもマニアックな品ぞろえである。その上、新幹線が止まり、空港もある。ハイテク産業都市としても有名で、古い街並みとは裏腹に、いつも新しい風が吹き抜けているというわけだ。とにかく、もしフランスに住むならトゥールーズと決めている。地方都市なので、物価もパリの3分の一。その上、全く美しい街である。
ガロンヌ河にあらわれた土で作ったサーモンピンク色の煉瓦で町中が覆われている。教会の尖塔に、石畳……。町の外から列車なり、車なりの車窓から、突然ピンクの煉瓦の群落が現れると、トゥールーズに着いたなあ、と思えるのだった。それほど、その色は格別で、ほかのどの街とも違って際立っている。街では新しい建築物もサーモンピンクに塗られる。まるで、かつての領主、トゥールーズ候にそうしろ、と命令されているかのように。
「マルセロを呼び出そう」
と、言えばいいのに、オリビエは突然トゥールーズの街中で車を止める。ひとりで、どんどん歩いていって、アパートの呼び鈴を押している。
男というのは、本日の予定について、自分だけでわかっているのだ。これは万国共通である。
「ちょっとー。トイレ行きたいんだけど」
「あとで、あとで。なんだ、いないみたいだなあ」
「だれんちよ」
「マルセロ」
マルセロはアルゼンチン人である。ミライユ大の留学生で、オリビエの友人である。昨年までは確か、同じ留学生であるルーマニア人と、日本人と一軒家を借りて住んでいたのに。
「どうして、アパートなの?いままでの家はどうしたの?」
「みんな、就職したりして、ばらばらになっちゃったんだ」
以前の一軒家は、なかなかすてきなところだった。庭付きの一軒家。それぞれに個室があり、家の真ん中にリビング。家のまわりは上手い具合に木でおおわれていて、トゥールーズの中心にあるにもかかわらず、周囲から隔絶されている風情。これで格安の物件だったという。オリビエたちはそこをパラダイスのように思っていて、毎晩のように寄りあっては食事をし、語り合い、ダンスをし、飲んだ。もちろん、フランスの大学は厳しいから、勉強もまじめにやる。私は、ある春の日、ガーデンパーティに呼ばれたことがある。庭で火をおこしてバーベキューをする。メインは牛の胸骨のところで、骨付きのそれを塊で買ってきて、塩・胡椒で味をつけてから、丸ごと焼く。焼くのはもちろん、牛肉を世界一食べる国、アルゼンチンから来たマルセロである。
「あれ、おいしかったのにな。もうできないんだ」
「千裕は、胃袋で寂しがってるんだね」
「当たり前じゃない」
老若男女、ガキからその辺の犬猫に至るまで食い意地のはっているフランス人に、こういうことは言われたかないね。
車をマルセロのアパートの前に駐車して、トゥールーズの街を歩くことにした。
「ロンブル・ブランシュに行こう」
と同時に言った。
ロンブル・ブランシュは、日本語にすると、白い影(幻)という意味である。町の中心にある書店である。私は文学的教養がないので、わからないのだが、全国規模のチェーンのスーパーマーケットの名前がギャラリー・ラファイエットというくらいの国であるから、何かの引用だろうと思う。フランスにはフナックという家電、CD、CD-ROMなども扱ったこれもまた大規模チェーン店の巨大書店がある。それはそれで便利で、利用価値は抜群である。もちろんトゥールーズにもフナックはある。しかし、このロンブル・ブランシュは、愛書家、研究者のための心やすまる美しい本屋なのである。しかも、ここトゥールーズにしかないのだ。ポスト・モダン風の店内に入ると入り口は、事典・辞書の類、語学、文学(全集)。そして階段を少し上がって中2階にはまず社会学、哲学、歴史学、心理学、教育学。そして奥にはまたもや文学、詩、音楽、演劇。真ん中にある階段をあがると、ペーパーバック・パラダイス、マンガ。その奥には料理、美術、スポーツ。ここではときどき詩の朗読会なんかもやっていて、詩の研究家のオリビエはときどき来ていたという。店のあちこちにはパソコンがあって、店員に本の在処を訪ねるとすぐにパソコン様に伺ってくれ「柱の向こうの3つ目の棚」とか教えてくれる。そんなことまでパソコンに打ち込まれているとは思えないのだが。
気がつくとお互いに両手に本を抱えている。あれもこれもみんなほしい。それにしても、ここの本の置き方はなんてすてきなんだろう。平積み、棚、ぎっしり入っているのに、ちっともせせこましくない。店もだだっ広くないし、スノッブではないけれど、おしゃれだ。フランスの本屋では雑誌は置いていない。雑誌と新聞は、キオスクとよばれるスタンドか、タバコ屋(コンビニ)に置いてあるのだ。そういうこともあるかもしれない。
ロンブル・ブランシュの隣にはクロック・ノートという楽譜屋がある。オリビエは知らなかった。楽器をやらない人間には関係ない本屋ではある。私は、ここでいつも楽譜をたくさん買って帰る。ここで手に入らないと、パリのHammという店(ここで手に入らない楽譜はない)で見つける。
「ピアソラの楽譜がないんだけど。おかしいなあ。2年前はたくさんあったんだけど」
「うーん。こっちでも大分成功したからね。売り切れじゃない?」とオリビエ。
オリビエが日本に住んでいたとき(兵役で来ていたのだ)東京の私の家に、他のフランス人たちとオリビエはよく来ていた。飲んで、踊って、食べて、である。良き日々であった。ある日、ピアソラをかけたら、そこにいた全員が示し合わせたように翌日タワーレコードに走ったのだという。私にこれは何?と聞くわけでもなく、チェックしていたのだ。なんかかわいいではないか。まてよ。しかし、翌日には複数の人をレコード屋に走らせる、その魔術的な魅力とはなんなんだろう。
そのCDの主たる演奏者は、ギドン・クレーメルであった。日本版では『ギドン・クレーメル ピアソラへのオマージュ』として発売されている、現在のピアソラブームの火付け役となったものである。
ギドン・クレーメルは、1947年生まれ。ラトビアのリナ出身。すでに書いた通り、ユダヤ人である。モスクワ音楽院卒。67年エリザベートコンクール第1位、69年パガニーニ・コンクール第1位、年度は未確認だが確か、チャイコフスキー・コンクールでも1位だったと記憶している。ソ連の反体制音楽家の一人で、結局旧西ドイツへ亡命。アイルランド国籍で現在ニューヨーク在住。
経歴だけみると、クラシックのバイオリン弾きとしてこれ以上ないという、なんという輝かしいものであろうか。その演奏スタイルは、乗ってくるとなぜか口を開けてよだれがでるという「なんたるちや」のものなのに!
周知の事実ではあるが、ユダヤ人の名バイオリニストは数多い。綺羅星のごとくである。ハイフェッツしかり、メニューインしかり。上手い、凄いと思うとだいたいユダヤ人である。そういえば、先日亡くなったメニューインが、テレビのインタビューに答えてこんなことを言っていた。
「我々ユダヤ人と同じようにジプシーの人たちもバイオリンが好きですよね。そして、とても上手い。我々と彼らの共通点は“放浪している”ということです。しかし、決定的に違うのは、ジプシーの人々は定住しない、つまり自ら動くということを選択し、我々は定住できない、つまり動くいうことを選択せざるを得なかったということです。音楽ジャンルはなぜか彼らの好むものは世俗的なものが多い。しかし、世俗とは何です? バイオリンはどこにでも持っていける。バイオリンという楽器そのものが、極めて世俗的な楽器なのです。クラシックの演奏家もそこを踏まえなければなりません。音楽に境界はないのだということを」
これは憶測だが、クレーメルはアルゲリチとのセッションで、音楽をやる、ということを体得したのではないか。クラシックでも何でもなく、ただ、音楽というものをやる、という行為を。そこには感応があり、戦いがあり、エモーションがある。その劇的な魔術。なぜなら、それ以前のクレーメルは、才気走った切れ味抜群のバイオリニストであった。それだけでも、十分であったのに、アルゲリチとのセッション以降、彼はさらにエモーションとパッションを身に付け、さらに大化けしているのだから。そして、ピアソラとの出会いも、ひょっとするとアルゼンチン人であるアルゲリチが影響しているかもしれない。ただ、先日テレビで見た彼らともう一人を加えたピアノトリオのコンサートのアンコールで、タンゴをやっていたが、アルゲリチが照れてしまって、ダメだったけれど。
エスキロール広場でマルセロに電話してみる。いた。
「クレープ屋で落ち合おう」
チーズと生ハムの蕎麦クレープをシードルで流し込んでいると、マルセロが来た。
「髪を切っちゃったの?」
マルセルは黒髪の巻き毛で肩の下まで延ばしたラファエロ・ヘアーだった。イタリアのサッカー選手のデル・ピエロみたいな、垂れ目がちでまつげがわさわさ生えていて、黒目がちの瞳とたいそうマッチしていたものである。ばっさりと短く刈り込んだ髪の毛に生活の変化を感じる。
「やあ、もう、論文が忙しくってさ。そうそう、日本は残念だったね。よくやってたけどさ」
「まあ。ごあいさつね」
と、これは先般のトゥールーズで行われたサッカー・フランス・ワールドカップのアルゼンチン対日本でアルゼンチンが快勝したことを指している。
「でもほら、あいつ、なんていったっけ。ナカ、ナカ」
「ナカタ?」
「うん。あいつはいい選手だよね」
「ありがと。バティストゥータにはほど遠いけど」
「バティといっしょにするなよ。もう!バティはハンサムで、上手くて、強くてもお」
ハンサムか? むさい兄ちゃんにしか見えんが。ま、いいか。と、ひとしきりサッカー談義。この場合、オリビエは……寝ている。この文学青年、この手の話題は全然わからないのだ。
「日本じゃ、またタンゴがはやってるよ。ピアソラなんて、大ブレイクしたよ」
「へーそいつは凄いね。うれしいな。またタンゴを踊ろうね」と往来に出て手を取り、二人でステップを踏む。オリビエも加わって、両手に花? 状態である。
「もうかえらなきゃ。論文」
「じゃ、バティ・ポーズをしよう」
バティ・ポーズとは、バティストゥータが得点したとき取るポーズのことである。電車ごっこみたいにつながって街灯の所まで行って、片手で街灯を持ち、仁王立ちする。たったそれだけ。でも、マルセロは誇らしげだった。異国での生活が長くなると、同国のアイドルが、山へだてた向こうのイタリアで活躍するのを見るのは励みになるのであろう。
オリビエが国鉄トゥールーズ・マタビロウ駅に送ってくれる。お別れの時だ。
「カルナバルの休暇はどうするの」
「パリの“方向”へ行くよ」
「あははは。また連絡つかなくなっちゃうね。でも放浪がオリビエの薬だね」
抱擁とほおにキス。そしてトゥールーズの町は宵やみで見えない。
(1999/7/3)