短い夏の手紙
ピエール=マリー・デカン氏のこと

 1998年のサッカー・ワールドカップ(W杯)・フランス大会のフランスの勝利の直後、私はフランスの有力スポーツ新聞であるレキップ紙のサッカー責任者・ピエール=マリー・デカン氏にお祝いのファックスを送った。

親愛なるピエール=マリー
 あなたは世界一幸せなサッカー・ジャーナリストですね。フランスでW杯が開かれたその年に、フランスが優勝するなんて。そのうえ、あなたはフランスのサッカー記者として、最も栄誉あるレキップで、統括指揮をとっているなんて! 明日の新聞はさぞかし、たくさん売れるでしょうねえ!

 実は、これはとんでもなかった。しかし、私は送らずにはいられなかった。試合後、彼の身辺は一変するはずだったからである。なぜなら、フランス・チームの監督であるエメ・ジャッケが、世界中の報道陣と衛星中継のカメラを前に吠えていたのだ。「レキップ、許さん! 責任者、でてこい!」
 責任者、とは。
 いうまでもない、ピエール=マリーのことである。

 フランスでの一番の関心事というのは、スポーツにおいてはまずサッカーそして自転車である。日本における野球がフランスにおけるサッカーだと考えていただければ間違いない。フランス代表戦などあろうものなら、1面から8面まではその試合の分析に費やされる。その字数たるや、日本のスポーツ新聞の比ではない。それが、単なる親善試合であっても、野球の日本シリーズの分析など比較にならないほど豊穰な記事で埋め尽くされる。
 レキップは1946年創刊のフランスで一番読まれているスポーツ紙で、正確な記事と豊富な内容によって世界的に高い評価を受けている。したがって、ピエール=マリーが、世界的スポーツの祭典であるW杯サッカーの自国開催時に、サッカー責任者として指揮をとるということは、フランスのサッカージャーナリストとしては最も誇らしいことなのだ。
 レキップのことを少し補足する。
 レキップは、フランスにおける唯一無二の総合スポーツ新聞であり(あとは、サッカー専門紙、自転車専門紙などに別れている)、シリアスかつ、スポーツへの愛にあふれている新聞である。センセーショナルな記事を載せることもあるが、基本的なところは決して割愛しない。例えば、陸上の世界選手権があると、予選の記録をすべて載せる。これが、日本のスポーツ紙ではどうであるかというと、日本の選手の記録と決勝の記録しか載せない。
 予選の記録を全部載せるということは「世界大会に出場する選手というものはそれぞれの国での一流の選手なのである。だから、出場選手はみな尊敬に値する」という姿勢のあらわれである。実際、日本のスポーツ紙は「そんなこといっても、紙面が足りない」というかもしれない。確かに、レキップには「芸能面」も「社会面」もない。100%スポーツのみの新聞である。聞いたところによると、日本のスポーツ記者はここのところ「くさっている」という。ここ数年、社会面や芸能面にどんどん紙面を奪われ、記事を書いても載らないというのだ。海外の記事などは外電に頼り、取材記事はほんの一握り。これがレキップはどうかというと、世界中にフリーの契約記者がおり(もちろん、この日本にもいる)、その記事は「取材主体」主義をつらぬいている。また、特筆すべきは、その筆致が大衆的な口語体にながされていないということである。読者のほとんどは、高いレベルの教育を受けていない人々である。フランスでは、イギリスのような社会的階級は存在しないが、教育レベルのちがいでの言語的階級社会は存在するのである。具体的に言えば、大学を卒業した人とそうでない人の、発音、文章の書き方に雲泥の差があるのだ。そんな中で、サッカーを中心としたスポーツのファンは、あまり高レベルとはいえない。しかし、そんな読者に向けてもきちんとしたフランス語を提示する(つまり、読者をなめていない)のである。
 そのような、誇り高いレキップであるが、エメ・ジャッケにはてこずった。
 エメ・ジャッケとレキップ紙の確執は、96年の欧州選手権後から続いていた。エメ・ジャッケは欧州選手権後、実のある発言はまるでしなくなってしまったのである。98年W杯後直後の、中立・高級紙のル・モンド紙のインタビューによれば、エメ・ジャッケは、W杯の優勝は、96年の欧州選手権で確信したといっている。===このインタビューはW杯直後に行われ、エメ・ジャッケの大放言のレキップ糾弾大会となっている。勝ってここまでやる奴もめずらしい。読みたい人は、メールにて御連絡を。私、全訳してあります。ただし、翻訳権を取っておりません(取ればいいだけなんだけど)ので、個人の楽しみということで公開はさしひかえたいと思います。=== そこで、試合では、W杯一点をみすえたシュミレーションに終始するようになったのだという。
 98年3月、W杯まで、あと3ヶ月というところで、フランス代表対ロシア代表の親善試合があった。見ている人全てががっくりするようなのっぺりした試合でフランスは負けたのだった。しかも、中心メンバーであるジダンを出さずに。翌日のレキップの一面の見出しは「さて、昨日の試合、なんだったの?」である。見出し、といっても、一番活字の大きい大見出しが、である。そして「エメ・ジャッケ、わからん」が、ありとあらゆる切り口でえんえん8ページ続いた。
 しかし、今になって思えば、この対ロシア戦ではジダンが出場できない時を想定したシュミレーションだったのだと思われる。実際、ジダンは、W杯本番の1次リーグで出場停止処分をうけ、このシュミレーションは無駄にならなかった。確かに、ジャッケのデータ収集と調整能力というのは非凡なものがあったと言わざるをえない。
 しかし、レキップ側からすれば、前回のW杯アメリカ大会の出場をすんでのところで逃してからというもの、予選なしで出場できた自国フランス大会でのチームの実力については、真剣試合とはいえない親善試合でしかはかることができないので、必要以上に懐疑的にならざるをえなくなっていたのだ。その上、エメ・ジャッケのやり方というのは、のらり、くらりとしていて情報や決め手に乏しく、外部には実にわかりにかった。そこでフラストレーションがどんどんたまり、記事はいらだちをかくせず、見出しはどんどんヒステリックになっていったのであった。

 W杯前にピエール=マリーに東京から電話でインタビューをした。きれいな発音は頭の回転の速さを連想させ、熱っぽい話ぶりは、まじめなロマンチストという印象だった。こちらの用意した質問に「まだあるのお?ずいぶんたくさんあるねえ」といいながらも、ひとつ、ひとつ丁寧に答えてくれたのは、誠実さの証だ。
「新聞記者になるのが、子供の頃からの夢だったんだ。僕は、仕事が大好きなんだ。特にサッカーが好きだから、今の仕事はとても楽しいよ。報道に対する姿勢?情熱と誠実さをもって、ことに当たる。これがすべてさ」
 そして、スポーツは、人間がやるからいい、といっていた。

 W杯が終わってから、1ヶ月近くたった夏の暑い日、ピエール=マリーから短い手紙をもらった。

親愛なる千裕
 W杯はぼくを朝から晩までなんだかんだとこき使った。ほとほと疲れたので旅に出ます。明日、アメリカに発ちます。こんどは日本にいかなくちゃね。君が失業したと聞いて、とても気の毒に思っています。でもそんなことは一時のことだよ。

 私は「おかしい」と直感した。W杯に勝った次の日の新聞は記録的な部数だったと聞いている。ジャッケとの確執はあったにせよ、話題性を提供したという点でも商売的には大成功だったでのではないか。この世界は売れてナンボである。良くも悪くも売れればそれはそれで許されてしまう。インタビューでも「フランスが優勝したら嬉しいよ。新聞も売れるだろうなあ」といっていた。彼の願望は、全て達成されたのではないか。なのに、ピエール=マリーは疲労のことしか書いてこない。

 年が明け、99年の1月31日、私はパリのピエール=マリーの家にいた。
 出版の現場を追われ、私は派遣会社に登録して外資系の医療機器の会社で英文の取り扱い説明書の翻訳と編集の仕事で稼いでいた。本屋に並ばない本を作るという、現場感覚の乏しい仕事に甘んじていた私は、次第に軽い鬱状態になっていった。もう、ほとほと嫌になって、またフランスに逃げ込んだのだ。ピエール=マリーは「パリにくるなら連絡しろ。泊めてやるから」と年賀状に書いてくれたので、お言葉に甘えたのだった。しかし、その年賀状は衝撃的な事実も記されていた。
「実は問題があって、私はもうサッカー責任者ではありません。次の配属先を待っているところ。別の会社でもいいかな(テレビとか…)」

 ピエール=マリーの家はパリの西の郊外のポン・ド・サンクリュに住んでいる。高速道路の脇ではあるが、すてきな三階建ての家である。庭もついている。外壁には蔦がはっていて、門は鉄の柵でできており、庭にはおおきなプラタナスの木が何本かあり、詩的な雰囲気を醸し出している。着いた日はおりしも満月で、「バンパイアはでないんですか」と失礼ながらきいてしまった。というのは、私はそのときクラシックにもブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」を読んでいたのである。玄関はガラス戸でできていて、部屋の中からの温かな光が見える。中は、白木の家具で統一され、至る所に青や半透明のガラスの入れ物が置いてあって、その中にきれいなガラスの玉がたくさん入っていた。インテリアは、モダンな中にも手作り風で、民族風のものや、美しいオーナメントの紙製の文具や小物がセンスの良さを物語る。家のつくりは階段を中心に吹き抜けになっていて、一階は台所とリビング、二階には寝室が二つと浴室とトイレ、三階は屋根裏部屋でここには洗濯物が干してあるが、マットレスが敷いてあって、一人くらいは泊まれる。おまけに、i-Macまである。なんてすてきなおうち! リビングは、バー形式の食卓で、バーで座るような足の長いメタリックな椅子がいくつかしつらえられていた。オーディオやテレビもあって、CDもならんでいたので、ちょっと拝見すると、センスはいいが、マニアックではないCD類が並んでいた。たとえばピーター・ガブリエルのベスト版があったり、マイルス・デイビスがあるかとおもえば、アース・ウインド・アンド・ファイアーがあったり、ミッシェル・ポルナレフがあったりといったような、全方位コレクションである。ただし、クラシックは残念ながらないようだった。それにしても、所帯じみた感じはいっさいない家である。モダンな家で、木製の家具やインテリアがあるので、多少なりともぬくもりはあるが「ぬかみそ」臭くはない。なにか、映画かドラマのような雰囲気があった。
 ピエール=マリーはここに、恋人のサンドラと住んでいる。
 実は、彼はなんと三人の子持ちだそうだ。15歳の長男を頭に、9歳と5歳の娘がいる。W杯の前に離婚したらしい。サンドラとは正式には結婚してはいない。ちなみに、現代のフランスでは結婚しない人が多く、また結婚したとしても離婚が多い。私がフランスで見た崩壊家族例はこれで二つ目だ。確率としては高い方だと思う。
 サンドラは目とお尻の大きい魅力的な女性である。年齢は三〇歳半ばという感じでケーブルテレビ局で働いているという。声はアルトで、髪の毛は濃い褐色、まゆ毛が濃くてなんとなく野生的な雰囲気を持っている。私の描いた裸婦のデッサンをピエール=マリーに見せると、「モデルを紹介しろ」としきりにいうが、サンドラは「絶対にやめてよね」と半ば真剣に言う。ピエール=マリーは確かにその声の調子や、話し方、漆黒の髪に、薄いいろの瞳、そしてそのしぐさにいたるまで、チャーミングでそつが無く、大変魅力的な人物であり、これが最後にならないかもしれない、と思わせるところがあり、それがサンドラを多少不安にさせているのであろう。そうそう、彼はまだ41歳。若いのだ。
 到着した日は、スーパー・ボウルの生中継をCanal+(プリュス)で見るというイベントがあった。Canal+とは、フランスでの有料テレビ局で、面白いスポーツ中継や映画、音楽放送で売っているところである。日本で言えばWOWOWに似ているが、自社制作のものや、インターネットサービス、バーチャルゲームなどのプログラムなどもあり、もっと規模の大きいものである。最近では、W杯でのフランスチーム優勝までの道のりを、チームに潜入して独占取材したドキュメンタリーで大成功した(これは、日本でもNHKの衛星放送で流されたので御存知の方もおられよう)。
 会場のCanal+に黒のRoverでのりつける。ずいぶん入場規制の厳しい様子だったのにピエール=マリーの顔パスでなんなく入れた。「ピエール=マリーは大物なのね」といと、「いつもこういうわけにはいかないけど」と照れていた。

 会場は飲み食いのできるビュッフェと、大画面で観戦できるホールに別れていた
 ビュッフェに、は白い星がちりばめられている青と赤の風船が部屋全体を埋め尽くしていて、「アメリカン」な雰囲気。ビールなどのアルコール類と軽食が用意されていていたが、私はここにくる前によったスポーツカフェ(パリ・サンジェルマンのサポーターがくるらしい)で食べた死ぬほど量の多いサラダで満腹な上に、真夜中であったので、口にはしなかった。それにこうしたところの出すものはだいたい味の想像がつく。ホールの方は、なぜか映画館状態で、巨大スクリーンにCanal+の映像が暗やみに浮き上がっている。ビュッフェとホールの間には税関吏のごときお兄さんがいて、タバコ、飲み物、食べ物持ち込みチェックを行っていた。そうでもしないと、フランス人はなし崩しに無法状態にしてしまい、なんでもありになってしまう。その辺はもう日本人てホントウに礼儀正しい。
 税関吏氏を始めとして、Canal+側のスタッフは、ハンサム、スタイルよし、短髪、ブランド品ぽいスーツ姿でおしゃれにヒゲなども少々はやしており、「洗練されたスタッフ」を意図して編成されているようであった。しかし、私にはかえって、そのある枠組みのなかでの「おしゃれ」のなされぶりが、日本の「ディスコの黒服」を思い出させ、そのスノッブさに失笑してしまった。客のほとんどスポーツジャーナリストであったが、そのほとんど全員が男で、さらにアフリカ系は一人もいなかった。これが偶然であるのか、どうなのかというのは私には判断する材料がなない。しかし、フランスにはたくさんアフリカ系の人がいるのに、どうしてここには一人もいないのか、大変不思議に思った。
 試合はデンバーの圧勝であった。ようするに、ご隣席のミスター・カーター元大統領のための試合かのようにも思えた。
 ところで、大画面でのアメフトというのはなかなか面白く、日本に帰ってからもアメフトを見ようかな、と思った。実にアメリカらしいスポーツだ。そして、テレビのためにあるようなスポーツである。プレー時間は15分ずつにしきられて、コマーシャルの入るテレビの中継に誠にぴったりである。そのコマーシャル(といってもCanal+の場合は自社広告なのであるが)のなかで日本のイエロー・モンキーのプロモーションビデオが流れて、私はひっくり返ってしまった。
 会場は、おフランステイストを加えた「アメリカ風」に飾られていたと書いた。またもや、少し説明不足なので、補足しておく。フランスにおける「アメリカ風」というのは意味もなく明るく、いや、机の下にある塵や、肌の皺が隠れるほどに明るく、ちょっと粗野で野暮、という、大変イヤミなものである。彼らは「それっぽさ」に自分なりの「テイスト」を加えているわけだが、かのマリー・アントワネットが豪華けんらんなベルサイユ宮殿の一角の一見質素なプチ・トリアノンに、水車や本物の農民の耕す畑をしつらえたというイヤミさに似ているものがある。まあ、彼女はオーストリア女ではあったが。フランス人はアメリカ人を「悪趣味」と思いながらも、アメリカン・ムービーやディズニーランドに魅かれていく自分たちを止められない。今や、NBAはレキップ紙の中でも大きなスペース(週一回2ページ見開き!)を割いているし、Canal+ではマイケル・ジョーダンの引退トリビュート番組を組むという。そして、このスーパー・ボウルのデモンストレーションである。会場を埋め尽くした100人余りの「選ばれた」スポーツジャーナリストたちは、みな若く、現役で、どちらを応援するというのでもなく良いプレーがあれば立ち上がって拍手をし、声をあげ楽しんでいた。私は、フランス人が、このようにアメリカのものを素直に喜び、楽しんでいるふうをみて、自分の考えを少し修正せざるを得なかった。日本にいるフランス人たちはよく「そんなアメリカ人のようなことはやめろよ」というようなことを言うときがある。彼らは、悪趣味の代名詞としてアメリカ人ということを使うのである。私は、自分がフランスびいきであることをあえて否定するものではないが、自分勝手な人の代名詞としてフランス人を引きあいに出すのはやぶさかではない。
 ピエール=マリーにそれを言うと、レキップはW杯以降Canal+に接近しているということ、また、紙面の水準を保つためにも、Canal+の視聴者の「先端的趣味」のニーズに応える義務があるのだという。私には単なるスノビズムにしか見えないけれど。

 レキップ社のピエール=マリーの個室に連れて行ってもらう。
 あこがれのレキップの社内に入り、私は舞い上がっていた。社屋は白地に赤い窓枠のモダンな建物で、中に入る為には扉の暗証番号を打ち込まねば入れない仕掛けになっている。2階に上がると、W杯の時の一面の原寸大の割り付け(おおお!ほ、ほしい)が貼りつけてある部屋が。そこがピエール=マリーの部屋だった。
 部屋につくなりピエール=マリーは、「前いたところとは、大分感じがちがうけどね。今はここが僕の部屋だ。ここにいつまでいてもいいよ。あと、ここで日本に電話しなさい。これは、命令。君は“便りがないのが無事の知らせ”だなんて言って、しょうがないやつだ」というと、私を置いてさっさと編集会議に行ってしまった。
 これは彼特有の優しさで、一人でそこに居て雰囲気に浸るということが、いちばん大事だということを彼は知っているのである。もし、そこに誰か居たなら、私のような人間は、人に気を使い、のびのびとその場を楽しむことが出来ないのだ。彼は、そうしたことを察することのできる人間なのだった。
 とにかく、私はレキップの「偉い人」の部屋にいるのだ。私のいた新聞社とは月とスッポン。えらい違いである。なにしろ、編集委員には個室が割り当てられているのである。その新聞社では、論説委員クラスでも、一つの部屋に押し込まれ、パーテーション(仕切り)もないたこ部屋で仕事(囲碁?)をしていたものだった。テレビがあり、昨年始まったレキップTVが見られる。そして、書棚にはサッカーの本、本、本。レキップマガジンの年末号の年鑑本、ルモンド、リベラシオン、パリジアン、レキップなどのきちんと積まれた古新聞の山、ポータブルPC(打ち捨てられてある:ひょっとして彼は苦手?)、電話、ロナウドのナイキのポスターの写真(ロゴなしで二枚)、バルテスのポスター(二枚)……。しかし、環境は違えど私の元いた新聞社と同じ匂いがする。それは、多分、古新聞やら、古雑誌やらが醸し出すものなのかもしれないが、独特の匂いである。私は、この「匂い」が大好きである。これがある限り編集業をやめないだろう。現場にもどりたい。その時私は強くそう思った。それこそ何よりも私には必要なことだった。
 先程「偉い人」と書いたが、ピエール=マリーは現在、日本でいえば、編集委員のような役職についている。しかし、彼はどうもそれを歓迎していない。現場を追われ「閑職」にまわされたと思っているようだ。そう思わせるほど、彼の毎日の表情はなにやら寂しく、生活も投げやりなのだ。サンドラとは、仲良くやっているように見えるし、夕飯のとき、カクテルを作ってくれたり、肉を焼いてくれたり(サンドラは料理が苦手)、ゲームをする時は、一見楽しそうなのだが、時折何か刹那的で、悲しげな感じもあった。生活ぶりも、少しの音にも反応して夜眠れない、とかそういうことから始まって、とても神経質なのだ。いったい何があったというのだろう。はた目から見れば栄転なのだが。

 そして、あっというまに日がたち、私はポーに住む友人のところにいかなくてはならなくなった。
 最後の滞在日の夕刻、彼の三人の子供たちがやって来た。みんなでチーズフォンデュをする。みんなどことなくピエール=マリーに似ている。彼は学校の先生よろしく、チーズフォンデュのやり方をレクチャーする。私は子供たちに折り紙を教えた。この、折り紙というのは、万国共通で、子供は大変興味を持つものらしい。まず、どうやって折るのかということ、そして自分もやってみたいと思う強い好奇心がストレートに伝わってくる。子供たちはとても素直で、表面上はとても友好的だ。気になったのは、サンドラに対しては、過剰なまでに友好的にふるまっているところだった。特に15歳の長男は、八方に気を使い、場に波風がたたないよう、たたないようにしているように見えた。
 ピエール=マリーが、子供たちを車で送りに行っている間に、サンドラと少し話す。
 彼とこの家には昨年の6月から住んでいるという。つまり、W杯中に引っ越してきたわけだ。その当時、ピエール=マリーの奥さんにはすでに愛人がいたということだ。私はてっきりピエール=マリーの浮気が離婚の原因かと思っていたので、ちょっと拍子抜けした。つまり、朝から晩まで仕事漬けのワーカホリックのピエール=マリーに愛想がつきたということか。その上、W杯後に、今まで一緒に働いてきた仲間の造反に会い、サッカー部を離れなければならなくなったというのだった。この事件には少なからず、エメ・ジャッケとの確執も影を落としていたようだ。
 ああ、彼の空虚な表情や、この家の生活感の乏しさは、そんなところからきていたのか。たった3ヶ月という短い期間に、ピエール=マリーの身の上にこれほどたくさんのものが降り掛かってきたというのだ。そういえば、私の滞在中も、ピエール=マリーの家には毎日だれかしら来ては泊まっていくが、なぜか報道関係の人はいなかった。なんとはなしに不思議ではあった。現場の仕事が大好きな者が理不尽な理由で、現場から遠ざけられる苦痛。たくさんのものから隔絶され、引き離され、苦い涙を流しながら決断しなければならなかった苦痛。ちょっとしたきっかけで親しかった人たちがさっと遠巻きに見つめるようになる寂しさ。それはつい最近私も経験したことにほかならない。私から現場をとったら、たちまち病気になってしまったではないか。緊張感のある現場にもどって働きたい。そう、そんな思いは私たちに共通するものだったのだ。ピエール=マリーとは、特にそういう話はしなかったけれど、あの、夏の短い手紙からたちのぼる奇妙な予感は、そういう疲れた魂が空間や人種を越えて共鳴しあったようなものだったのかもしれない。

 サンドラは「自分と一緒だからきっと良いようになる」と信じているようだった。しかし、サンドラには悪いが、私はどちらかというと、サンドラを抱きながらもピエール=マリーはその向こう側にあるなにかを凝視しているような気がしていた。
 翌日の早朝、私はひっそりと旅立った。ピエール=マリーはまだ寝ていたが、さよならは言いたくなかった。ひとこと「ありがとう」という置き手紙を残し、せめてよい夢を、それだけを願った。

(1999/6/14)