W杯前夜…コンフェデレーションズカップでのトルシエ監督秘話

 1998年フランス大会の優勝時のフランス代表監督エメ・ジャッケは、W杯を手にしたとき、世界中に同時生中継されているテレビカメラに向かって、自国の有力スポーツ紙・レキップを名指しで糾弾した。それは「ざまあみろ、勝った俺が正しいんだぞ」といわんばかりの容赦ないもので、両者の確執を知らないものには、なぜ、優勝の瞬間にそんなことを言わないとならないのか、理解に苦しむものだった。
 おいおい、と思ったわたしは、友人で、当時のレキップ紙サッカー部長のPにファックスを書いた。
「そんなことはない、あなたはよくやったわよ」
Pはサッカー記者一筋20余年、晴れのW杯紙面作りの責任者であった。

 しかし、ジャッケの攻撃の手は緩まない。優勝の美酒の香りも消えないうちに、高級紙である「ル・モンド」やイギリスBBCのサッカー番組に自分が監督在任中のレキップの「卑劣」な報道ぶりを「告発」。勝者の優越をフルに活用して、「レキップはクソだ」と繰り返した。
 この効果はてきめんで、PはW杯の特別体制を乗り切った功績ですぐに昇進したのだが、実質的には左遷であった。なぜなら、肩書きは「顧問」となってはいたが、閑職を余儀なくされたからだ。


歴史は新潟でつくられる

 その閑職にあったPから、電話があったのは2001年の6月のことだ。なんと、日本に、しかも新宿に来ているというのだ。目的は国際サッカー連盟(FIFA)主催の大陸王者決定戦、コンフェデレーションズカップの取材のためだ。私が彼の現場復帰を喜ぶと、会いたいというので、出かけていった。フランスも代表として出場しているこの大会、レキップ紙はかなりの人数を割いていたが、後に日本代表監督フィリップ・トルシエの本を日本で出版することになるJ記者とPは日本番記者として来日したのだ。
 そのレキップ紙の日本番記者たちは前日、カメルーンと日本が対戦し2対0で日本が勝った新潟で、アーセナル監督のアーセン・ベンゲルと、当時カメルーン監督だったピエール・ルシャントルとトルシエ監督とタクシーに相乗りし、バーで飲んだとか。なんとまあフランス人だらけ。敵味方の監督と、イギリスのクラブチームの監督とジャーナリストが呉越同舟、試合のあとで一杯とは、日本人記者のよだれを流す音が聞こえそう。ベンゲルは、テレビ局の招きで、解説者として来日しており、トルシエとは、フランスの国立トレーニングセンターでの指導者養成学校で机を並べた仲、ルシャントルとトルシエはお友だち、というつながり。J記者はトルシエのことを何度かすでに取材していたという仲だが、Pはトルシエとは初対面だという。
「で、トルシエの携帯番号ゲットしたぜ。かけてみる?」
ぎょぎょ。
「い、いいです、いいです。え、遠慮しときます。しかし、初対面で携帯番号ゲットなの? すごいねえ。どういう魔法使ったの? 日本の記者さん、一体何人が知ってるかしらね?」
「トルシエはなぜかレキップ紙を信頼してるから、そのおかげで教えてもらえたんだよ」
 トルシエは当時、フランスではほとんど知られていない。そのトルシエを報道しているのがレキップ紙とその傘下にあるフランス・フットボール誌だけだった、ということもあるかもしれない。
「しかし、ジャッケとえらいちがいだねえ。トルシエはジャッケの懐刀だったルメールの弟子のようなものなのに」
 トルシエが現役のプロ・サッカー選手だったころ、フランスのレッドスターというクラブに所属していたことがある。そのときルメールはそのチームの監督で、トルシエは彼からプロ意識のなんたるかをたたきこまれたのだ。
 そのルメールとトルシエは、このコンフェデレーションズカップの決勝戦でそれぞれフランス、日本の代表監督となって、ぶつかることになる。

 新潟の夜、それまで何度か監督辞任騒動を繰り広げていたトルシエは。ベンゲルに日本に残るよう進言されたという。もう少し我慢しろ、ここにいることは将来きっと君のためになると。
 日本チームとしては歴史的な一夜だったわけである。


金魚の糞に群がる雑魚

 横浜で、フランスとの決勝戦の前に、トルシエの記者会見があるというので、くっついていった。単なる金魚の糞、というか当時、新聞社で仕事をしていた私には「記事にしないでね」としっかり釘をさされての同行である。であるから、かえって仕事と無関係ということで、完全に遊びの気分で楽しむことにした。しかし、ここで目の当たりにしたのは、日本のジャーナリストと、トルシエの、深くて暗い溝であった。

 記者「戦術はディフェンシブにいくのか、オフェンシブにいくのか」
 トルシエ「かーーーーーっ。まったく進歩がない!そんな質問までいちいち答えなきゃならんのか! これだからサッカー後進国は困る。この期に及んで、12対0で勝てるとでも書きたいのか。この手の質問に関しては、第36回記者会見をご参照のことっ」
 (以上直訳。ちなみにダバディ氏各方面に気を配り、かなりはしょっていた模様)

 日本サッカー連盟とのあつれきや、ジャーナリストとの溝については、協会がフランス人の性向のリサーチ不足でその扱い方をまちがったという、最初のボタンの掛け違いもあろうが、サッカー専門誌はさておき、一般紙やスポーツ紙のサッカー記者の見識の低さや視野の狭さもトルシエを落胆させた。
 ある連盟関係者は、トルシエが契約問題でもめたときに、所謂「夜討ち朝駆け」式に昼夜を問わず、彼の自宅前に「ボンジュール」すら言えない、いや、「こんにちは」すらろくにできない記者がはりついていたことが、トルシエと日本のジャーナリストとの不和を決定づけた、と分析している。ヨーロッパから飛び出し、アフリカで長く監督業をしていたトルシエでさえ、戸口前にとぐろを巻く日本流の、そして常識的な礼儀も知らない記者の群れには、辟易したようだ。
 J記者は、中田に「フランス人はみんなトルシエみたいなのか?」と聞かれたという。中田にとってのトルシエがどういう印象なのかはさておき、妥協を知らない理想主義者、すぐに爆発する火薬庫、規律を重んじ、目的のためなら手段(予算?)を選ばずの強行路線、去った後には借金だけが残るというアフリカでの極悪非道ぶり(?)などの風評はあったわけだが、活動拠点がアフリカで、フランス本国でもほとんど知られていないトルシエの性格など、日本人は知る由もない。ただし、ベンゲル氏は、彼を推薦するにあたって「かんしゃく持ちだ」ということは日本側に伝えていたらしい。また、「短気なこと」を定期的に電話でいさめてたりもしているという。

 この会見では、決勝戦を前に、中田選手がASローマに戻るかどうかというのが関心の的であった。結局中田はローマを取ったのだが、その選択に関して、トルシエもフランス人ジャーナリストたちも同じ意見だった。
すなわち、
「どうしたいかは中田の自由だ。だが、ジダンだったら絶対にしない」

 会見で「いない人と死んだものとあてにしない」「日本のスター(をつくりたがる)システムはもううんざり。わたしのチームにはスターはいない」と会見でうそぶいていたトルシエだったが、会見が終わりフランスのプレスに取り囲まれると、一転して弱気になり「中田をはじめ、名波、中村、高原、柳沢もいないんだ」と泣き言連発。身振り手振りはあるけれども語り口はいたって静か、とつとつとした口説きにも似たその泣き言はえんえん20分にも及んだ。
 ようやく泣いた赤鬼・トルシエが去り、フランス人記者たちもその場を離れようとしたとき、私は背後にいくつもの影がせまるのを感じていた。
「○○新聞ですけど」「××通信社ですけど」といきなり名刺が雨あられと降ってきた。
「はあ、何かご用ですか」と私。
「いえ、いま監督さん、なんて言ってたんですか?」
「ほえ?」
 つまり、会見場で文字通り「金魚の糞」のようにレキップ紙の記者にひっついていた私に目をつけていたらしい。私は少し背筋が寒くなった。と同時に、これでは、トルシエに邪険にされるのもむべなるかな、とも思った。
 て、てめえら! プ、プロだろう????
 だいたい、フランス人のしかも日本代表監督の会見で、それほど情報欲しかったら、通訳を帯同するべきであろう。トルシエは英語もできるのだし、英語のわかる人は探せば結構いるものだ。私のようなサッカー素人の「金魚の糞」にすりよってきても、得られる情報などたかがしれていると思わんのか? ね、そうでしょう? と「金魚」(親愛なるレキップ紙記者)に言おうと思ったら、やさしい彼は、なんと、日本人記者の方々に英語で懇切丁寧に説明してあげているではありませんか! さすが自由・平等・博愛の国からきただけあるわね、と皮肉をいってみたが、実は、彼らにとって、そんな情報、あげたって減るもんじゃなし、というレベルなのだ。つまり、大富豪が貧乏人に恵んであげてるようなもん。ほどなくして、彼らの記者魂というのは、そういう雑魚のようなやからとは次元がちがうことを思い知らされた。


ジャーナリストのプライド

 実は、この会見騒動のあと、Pは日本のある代表選手の独占インタビューをすることになっていた。
 しかし、会見一時間前になっても、通訳が決まっていない。
 まず、ダバディ氏にあたっているが、彼はトルシエの通訳なので、そちらを優先させるだろうから、確証が持てない。連盟の広報を通して、コンフェデレーションズカップ全体で英語の通訳をしている日本人をゲットしたものの、正確を期するためにそれをフランス語訳をしてくれ、というのだ。(断っておくがPは私の何十倍も英語が堪能である)そして、もし、その英語の通訳の都合が悪かったら、私に通訳を頼みたい、という。

 私はぎょっとした。
 そんなの無理です。
 
 通訳というのは、豊かな素質と、それこそ特殊訓練をつまないとできない仕事である。例のダバディ氏は日本語が上手だし、トルシエのよき理解者ではあるが、通訳としては、プロではない。まわりに気を遣って意訳をしてしまったり、文法上の間違いも多い。通訳は、その人が何を言っているのか「正確に」伝える人であるから、そこに意図や感情などが入ったり、文法の間違いは避けるべきだ。外国人とただ会話ができる、意志の疎通ができるというのとはわけが違うのである。
 結局、レキップ紙のブランド力がものを言って、ダバディ氏自ら通訳を買って出てくれた。Pは、最もいい場合に落ち着いたと大喜び。同国人であるフランス人の通訳の方が、気分が楽なのだ。
 
 しかし、単なる、といっては失礼だが「日本の一選手にインタビューする」ということだけに対し、これだけの手間をかけるのである。私は、堂々とした当て馬だったが、考えてみると、最初から、私はそういう役ができるかも、という色気が働いていたのではないかと思う。何かの役にたつかも……だから保険として会見につれていこう、と。
 そして、通訳探しである。フランス人通訳が一番いいが、そううまく行かないかもしれない。それなら、何通りかすべり止めを考えておこう。その保険、というか当て馬に行き着くまでに、ダバディ、英語のプロの通訳、そして私と三段階も踏むのである。たぶん、彼にとって記事を書くためのこうした姿勢はしごく当たり前のことで、取材対象がサッカー連盟の偉い人でも、Jリーグの新人選手でも、同じようにしたことだろう。自分の知らない国の人間の取材をして、人が金を払ってでも買うような記事を書くためには、これでも足りないと思っていたかもしれない。

 しかし、ここで彼の姿勢の厳しさに驚いていた私はまだ甘かった。
 横浜から東京まで、帰りの電車で、待っていたのは怒濤の質問攻めである。
 ダバディが訳しもらしていること、意訳していること、誤訳があったらこの場で全部思い出せ、というのだ。ひえー、ここにも鬼が! フランス人はみな鬼か? 神様お助けを! 私は、物見遊山気分で来ていたというのに! 仕方がないのでない頭をしぼって頑張ったが、なんという記者魂だろう。さらに、そのときたまたま私の持っていた日本の新聞、雑誌の類の関係のあるところを訳せ、という。東京に着いたときには、絞り取られたオレンジのようにへろへろになったのは言うまでもない。


グローバルな変人トルシエ

 へろへろになった私に、鬼記者は酒を奢ってくれるという。新宿で日本人のジャーナリストと約束してるから、と言って紹介されたのはフランス通のフリージャーナリストのTさんだった。彼はトルシエやルメールにインタビューを何度もしている日本でもめずらしい人だ。その日Pと私の出席した会見ではルメールにインタビューをしていたため、参加しなかったのだという。フランスのスポーツ写真家の大御所、G氏もいた。
 ここでも話題になったのは赤鬼・トルシエのことだった。Pは記者仲間の見解として、フランス人から見ても彼のオーバーアクションや短気ぶりはこっけいだという。なぜあそこまでやるのかね? 日本人ジャーナリストにあまりにも冷たいよね、それに、フランス人だけに口を開くのはどうなんだろうね、彼はアフリカでもそれをやって、失敗したはずなんだけどね、 などなど。
 トルシエのそういった過剰反応やアクションは、彼が最終的に指導者としてもどりたいと思っているヨーロッパの人間から見ると、なにやら焦っているふうにもとれるらしい。しかし、監督という商売は、勝てば官軍なのである。勝てば何をいっても許される。そして、実績がキャリアのすべてなのである。実際日本では実績はあげてきたわけだ。そういう文脈から言えば、トルシエの狂気の沙汰と思われる振る舞いも、むべなるかな、とも思うのは、私が単なる金魚の糞だからか。