ウツボになったワタシ

 節分の頃、麻薬の売人に会った。
 クスリの名はマガジンという。
 
 売人が、どのくらい前からわたしたちの飯場(*1)の周辺に出没していたのかは、全く謎である。
 なぜなら、わたしは前年の春から年を越してさらにしばらく、ひとつの仕事に没頭していたからである。この仕事は、一見通常業務のようでいて、当事者たちには特別の意味がある仕事であった。なぜなら、わたしにとって、この尊敬できる、人生の師匠とも仰ぐ上司のバッハおじさん(*2)と仕事をするのは文字通り最初で最後の機会だったからだ。バッハおじさんは、この仕事を最後に、完全に引退することになっていて、わたしはその長い出版業のキャリアの最後の仕事に呼ばれたのだった。仕事の内容も、100冊分の写真雑誌を取りまとめた全集をつくることと、その写真雑誌のリファレンスをつくりあげる、という遠大なもので、師匠のかたわらで薫陶をうけた10ヶ月余りというものは、今振り返ってもひとつひとつが示唆に富んでいて、一生の宝にもなるかと思われるようなものだった。都合、師弟間ツーカー度は日に日に増し、飯場では「中嶋籠の鳥説(他の飯場でわれわれを良く知る人がわたしを連れ出す時、冗談でバッハおじさんに『ちょっと中嶋さん、お借りしますよ』などど断るので)」「ラブラブ説(いくらなんでも、年の差が)」までささやかれるという、名誉だか不名誉だかわからないことともなった。というのは、バッハおじさんは経験が深いだけではなく、たいへん教養の高い人で、あらゆるジャンルに精通しており、みんなの知恵袋として頼られていて、硬派の企画の前にはかならずといっていいほどご意見頂戴に謁見を求められるような人なのだが、あまりそばに人を置こうとはせず、同僚と飲みにもいかず、という孤高なスタンスを保っていた。そういう人が、わたしのようなどこの馬の骨だかわからない若輩者を突然指名して雇い入れた、という図は周囲の奇異に映ったのだろう。個人的にはラベルとペルルミュテール(*3)を目指して楽しんでいたつもりだったのだが……。
 仕事は多岐にわたっており、時間はタイト。毎日が編集技術試験のようなものでもあった。大詰めの時こそ、人海戦術が用いられ、大勢のスタッフに助けてもらったが、全体をとおしては家内制手工業のようなもので、地道なデータベース作りから、文献検索などのデータの裏づけ作業、細かい原稿書きから校閲者、果ては写真の割り付けからレイアウトフォーマットを考えるデザイナーにまでなった。そのうえコンピューターを利用したさまざまな試みと、古色蒼然としたマニュアル(手作業)による写真のトリミングや割り付け作業という、普通デザイナーにやってもらうようなことまでやることとなり、とにかく、今まで経験した技術を総動員しつつ、新しいデータ処理の方法論の可能性を探るという、自分にとってはかけがえのない経験になったことは幸いである。
 そのうえ、バッハおじさんの新聞記者時代の途方もない話……テロリストのかたわらでオイチョ(カブ)をしたとか、米軍の海軍にハワイ呼びつけられて、なにがなんだかわからないまま基地の見学をしたとか、成田闘争の取材の話、ここではとてもかけない警察でのあんな話、こんな話、を聞いたり、いつものように、イチローの身を案じたり、バッハのCDやF1の記事がお互いの机の上を飛び交ったり、ワインやビールで酒盛りしたり、お菓子を作っていっておやつをしたり、と楽しいこともたくさんあった。なにしろ、おじさんが会社の意向で新聞記者から編集者に転身したのは、わたしが生まれた時分のことである。その後、現在の週刊百科の形態を考案したり、完全無欠の人名事典を作り上げたり、グラフ誌でイリヤマテヤマネコを追いかけたり、と八面六臂の活躍だった。そんな古きよき時代のあれこれや、失敗談やらなにやらを聞けたのは楽しいものだった。
 余談になるが、わたしがフランス語をやるようになった直接のきっかけは、恋人に振られて暇になったからなのだが、そんな自暴自棄な理由から、「フランスに行きたい」というかなり建設的な理由に翻ったのはある記事をみたからなのだ。それがなんと、20余年も前に、バッハおじさんが指揮をとっていた週刊百科の記事、しかもおじさんの企画であったことが、このほど偶然わかってしまった。それは、グリューネバルトという中世の画家の「イーゼンハイムの祭壇画」についてのもので、フランスはアルザス地方、コールマールのウンターリンデン美術館にある。わたしは、一時期この絵みたさにフランス語をがんばったといっても過言ではない。そんなこととは露知らず、まったく偶然に巡り巡って、職場で出会い、お近づきにさせてもらったあげく、こうして仕事の手伝いまでさせてもらえる上、与太話まで聞けるようになったのであるから、人生とは不思議なものである。

 そんなこんなで、あまりまわりを見る余裕がなかったから、売人がいつごろわれわれの飯場の近辺に現れたのかはまったく覚えが無い。
 いつのまにかわたしの机からよくみえる位置に、Macintoshの七色林檎の黒いパワーブックが置かれているのは気付いていたのだが。
 わたしの意識のなかでは「いつのまにか現れた」そこの飯場の人たちは、なぜかセーターが黒かったり、ジャケットが黒かったり、ボトムが黒かったり、眼鏡の淵が黒かったりと、みんな黒いものをつけていて、バッハおじさんと「なぜ、あそこの方たちは、みんな黒い服をきているんでしょうね?」とか話したものだった。果たして、その黒い人々一味の中の、七色林檎の持ち主が売人であった。
 節分のころ、わたしの仕事も一段落して、印刷所からゲラ刷りを待つだけのことが多くなり、暇になった。そんな時、ふとしたきっかけで売人と話をするようになった。売人は、その飯場の例にもれず、黒い服を着ていた。わたしは、ずっと気になっていた売人のパワーブックが見たかったので、見せてもらった。とてもかわいらしい。わたしの白色林檎パワーブックより小振りであるが、フタの部分が愛らしく、こういうのならわたしも欲しかった、と思った。売人は西のことばでキーボードが気に入らないといっていた。アズマオンナのわたしは、その抑揚がめずらしく、なるほど西のことばは鼻にぬけるのか、とそのとき思った。
 売人はわたしのメールアドレスが興味深いといった。それは、わたしの長年の思い人である元キング・クリムゾンのドラマーのビル・ブラフォードにちなんでいるというと、売人は相方のベーシストのジョン・ウエットンが好きだ、といった。それで、キング・クリムゾンの話などをした。
 それから、ときどき職場で話をしたりメールをやりとりするようになったある日、売人はついにその薬を三錠、わたしのところに持ってきた。
「これはマガジンというんだけれど」
と西のことばでいった。なんのことはない、「マガジン」という名前のバンドのCDを3枚貸してくれたのである。
 売人によれば、マガジンは1977年から数年間活動したマンチェスターのパンク・バンドで、売人が最も好きなバンドのひとつだという。売人は親切にも「服用」する順番も示してくれた。曰く、最初がPLAY(1980)、次がSECONDHAND DAYLIGHT (1979)、そしてTHE CORRECT USE OF SOAP(1980)。
 期せずして、その日は、ビル・ブラフォードのコンサートがお台場のライブハウスで行われる日だった。わたしは感謝して、行きのバスの中で一番目に聞くように勧められたそれを聞いた。
 レインボーブリッジをわたるとき、オレンジ色の大きな満月が昇るのがみえた。

◆◆わたしがウツボになるまで◆

 マガジン。それは、魅力的な声のボーカリストと、タイトなリズム、英国の香りのするコード進行が特徴的で、聞いていると、なにやら、心の奥の方を揉みしだかれるような不思議な気がした。それは、今思うと、自分の心の中に埋め込まれていた種が、一斉に発芽する瞬間であったのだ。
 全体的に前へ前へと進むような前向きなビートだが、その歩みは力強いというよりは、つま先立って歩を進めようとしているような感じで、これはパンクのようでいて、そうしたことではくくれない何かがあると思わせた。なんというかどこか端正な艶と色気あるのだ。しかも、ベースの音色がとても変わっていて、ときどきそのラインは狂おしい氾濫をおこす。

 ビルのライブは素晴らしかった。東京で三回だけ行われた。わたしは三回とも行った。毎日少しずつ曲のセットを変えていた。細かなパッセージも毎回異なっている。こういう趣向はクリムゾン時代の名残であろうか。
 会場のライブハウスは天井が高く、調度も洒落ていて、落ち着いたとても感じのいいところだった。二百人くらいが入れるだろうか。食事をしたり、お酒を飲みながら、演奏を楽しむことが出来る。プレイヤーは観客のとても近くにいて、ときどきビルと目が合ったりする。それだけでもどきどきした。ビルは、事前に自分のウェッブ・サイト(HP)にメールでリクエストをしてきたファンに、わざわざ応えたりと、暖かい。彼はすっかりジャズ・ミュージシャンになっていて、楽しそうであった。そして相変わらず上手で、饒舌さがほどよく押さえられた中に熟練した技術が見え隠れする。力が抜けているというのか、「見切りの剣」というのか、無駄な動きが一切なく、打ちたいところに、的がおのずと現れるような錯覚に陥る。その一連のしぐさや、音色や多彩なリズムを聞いていると、訓練された舞をみるような、または一編の美しい朗読をきいているような気にもさせられた。音楽も、自信にあふれて、押し付けがましいことのない、それでいて野心的な実に豊かもので、ビルのこれからの人生は、洋々とした美しい音楽に溢れることを予感させた。わたしは、ビルはようやく自分の中の宝石を誰のためでもなく、自分の好きなように磨き始めたのだと思うと、嬉しく、ほのぼのとした気にさせられた。
 だがしかし……。
 一方でわたしはマガジンのことを考えていたのだった。
 いまや、与えられた「3錠」など、とっくに「服用」してしまい、よるとさわると、マガジンのことばかり考えてしまっていた。
「この変な感じは何?」
 なにか、古い恋人に抱かれながら、別の男のことを考えているようなそんな罪悪感。しかし、マガジンは二十年近く前に終わったバンドなのである。わたしにとっては耳新しいとはいえ、最愛のビルは現在進行形、しかも目の前、手を指しだせば握り返してくれるような距離にいるのである。それも極上の音楽といっしょに。それなのに。
 そういえば、売人はわたしと同じ、長年のクリムゾン・ファンであって、ビルのこともとても好きで、アイドルだともいっていた。なにしろ、ジョン・ウエットンのベースラインをそらんじているというし、クリムゾン関係の物品にいくらお金をついやしたかわからないともいっていたし……そうだ、ニューヨークのボトムラインでビルと朋友のトニー・レヴィンとのユニットであるB.L.U.E.を見たとも……! しかし、売人の飯場はいまや断末魔の修羅場の様相を呈しており、黒い人々はみな苦しそうであった。もしチケットがあってもビルのコンサートなんて行けるわけがない。それなのに、嬉しそうにこれみよがしに、頬を染め、目をうるませながら、足取りも軽くビルのコンサートに一度ならずも三度まで行くわたし! 売人は、そんなわたしに強い習慣性あるの毒をたっぷりぬった林檎をしこんだのではないだろうか。そ、そういえば、黒い淵の眼鏡の奥が不敵に光ったような……。ああ、西方の人おそるべし!

 毒をくらわば皿まで。

 なにより、この心を揉みしだくものが何か知りたい。わたしも江戸っ子、こうなったら、行くところまでいってやろうじゃないの、と、今どきテレビの時代劇でも恥ずかしくて吐けないような台詞を吐きつつ、わたしは売人のオモウツボ、もとい、マガジン中毒地獄に自ら堕ちることにした。
 アーメン。

 かくして、ウツボになったわたしは、まずは、昨年出たフランスのロック事典(Dictionnaire du Rock: France, 2000)をひもとくことにした。この事典はミチカ・アサヤというル・モンド紙を中心に評論活動をしているフランス人の男性音楽ライターがまとめた未曾有のロック事典である。本文だけで2200余頁もある大著で、事典としてはもちろんのこと、読みものとしても楽しめる仕組みになっている。別冊でついているリファレンスのコンセプトもほぼ完璧(*4)で、事典編集を中心に仕事をしている自分としてはこんな本が作れたらと思えるだけでなく、読者としても手に取ったとき、その充実した記事に自然に喜びが溢れ出るような素晴らしいものである。
 驚いたことに、この事典におけるマガジンに関する記述は152行にもおよんでいる。77年から81年までというグループとしての活動期間にしては、かなりの行数を裂いているといえる。
 それによれば、マガジンはピーター(ピート)・シェリーとバズコックスを結成するも、自ら辞したハワード・デボート(HOWARD DEVOTO)なる「卓越した」ボーカリストにして作詞家が中心となった、英国はマンチェスター出身のグループで、すでにステレオタイプとなったパンク・ロックに一石を投じようという野心があったらしい。この場合のステレオタイプとは、思うに、「ローテク」「ワンパターン」「ノーコード」「ノーメロディー」そして「暴走と感情のみ」である。新しいムーブメントというのは、なんでもそうなのだが、行き着く先は「形式化」「簡略化」「安易にして低きに流れる」なのである。
 「感情」だけで物をつくるとすると、だいたい3つ作ればもう終わりである。継続した物作りというのは、感情とか、感性だけでは絶対に成り立たない。そういう偶然性に頼ることは、物事の終息を早めるだけである。
 マガジンは感情と熱情と暴力のさかまく嵐のような激情のパンクバンドというよりは、理性でコントロールされた「洗練されたパンクバンド」(*5)という称号こそふさわしい。しかし、それは「激情」に対する比較論としての「理性」にすぎない。マガジンには「官能」という魔性の悪魔が棲んでいて、その悪魔は聴くものを隙あらば後ろから抱きしめて接吻し、するりと闇の世界に拉致しかねないという、矛盾と逆説をはらんだ「仮面の理性」なのである。その歌詞の文学性、端正な美意識、パンク的対位法ともいいたくなるような和声、和音の壁を突き抜けて自由に駆け抜ける魔性のベースライン……。マガジンの発する膨大な暗号は、その解読表を持つものが心深く埋め込んでいる眠れる種を一斉に発芽させる魔術がある。
 果たして、デボートの「一石」はそれに触れた多くのミュージシャンの心にさざ波を起こし、あたかもヨーロッパ文化の地下水脈を流れるヘルメス哲学のごとく、その後のロック・ミュージックシーンの闇に深く君臨したのだった。
 
◆◆ボウイ、ボラン、デボートと俺◆

 事典の記述を続ける。
 マガジンの音楽性は、初期のロキシー・ミュージック、ベルベット・アンダーグラウンドを彷彿とさせる70年代の雰囲気を醸し出す、とある。そういえば、売人はロキシーやベルベットも好きだといっていた。確かにその筋の音なのである。シンセサイザーの音色はロキシー・ミュージックのよう。しかし、あの黄昏たデカダンスはマガジンの芸風ではない。マガジンはどちらかというと、端正な慎ましさとでもいうのか、ロキシーが桃山時代の豪華絢爛な障壁画だとすると、マガジンは質素な禅寺の開け放たれた本堂を思わせるのである。そこはびょうびょうと寒風ふきすさんだ枯れ果てたところ、というわけではなくて、蒼い炎が一筋だけあって、それを手のひらで抱えているような、寒々としながらも内なる熱さがあるのだ。
 中心人物のデボートは本名をハワード・トラフォード(TRAFFORD)といい、バズコックス時代にデボートと名乗り始めたらしい。なんと、デボート(DEVOTO)とは、ラテン語で「魔術師」という意味を内包しているという。デボートは高校時代、19世紀末の詩人、ホプキンスに感銘を受けるも、ロックに関しては70年代半ばまで関心がわかなかったという。
 他のメンバーは、77年半ば、マンチェスターのバージンショップ(レコード屋か?)の小さな募集広告で集められた。曰く「速い曲と遅い曲やりたし」。集まったメンバーと数年の活動後、79年にメンバーはデボートの他、ジョン・マクガフ(g. sax, JOHN McGOCH)、デイブ・フォーミュラ(key. DAVE FORMULA)、バリー・アダムソン(bass, BARRY ADAMSON)、ジョン・ドイル(dr. JOHN DOYLE)に落ちついた。マクガフは、後にスージー&ザ・バンシーズ(SIOUXSIE AND THE BANSHEES)に加入した……(マクガフのことはバンシーズを通じてわたしも知っていたので、ニアミスであったのだな。……ああ、なるほど。売人が貸してくれたモノはこの固定したメンバーの油ののった時代のものなのであった……深遠なる配慮に感謝)。
 さて、事典を読み進んでいくうちに、わたしの目はある記述に釘付けになった。

  「モリッシーは、88年にデボートをステージに招き入れ、THE LIGHT
   POURS OUT OF MEを一緒に歌った」

 モリッシーは、88年……、モリッシーは88年……。わたしはその記述を頭の中でぐるぐる10回くらい反芻したであろうか。その上数回音読してしまったのはいうまでもない。
 88年といえば、スミス解散後のモリッシーのソロキャリアの始まりの年である。
「知らないぞ。そんなこと!」
 しかし、考えてみると、ピーター・マーフィー(PETER MURPHY, ex-BAUHAUS)もそういえばマガジンのメンバー、マクガフとつるんでたような。果たして、調べてみるとこのTHE LIGHT POURS OUT OF ME をカバーしたという事実にも突き当たった。
 この曲は、「光は自分の上には当たらない(光は自分を避けて通る)」ということを連綿と歌っているかなりいじけた内容の歌詞なのだが、その曲想はその歌詞とは裏腹に明るい少し速めの「マーチ」なのである。ベースは淡々としかしリズミカルにE(ミ)の音を刻み続け、ギターのリフは逃げも隠れもしないというような堂々とした面持ち。そして、淡々とワンコード(同じ和音)で進む。サビの部分もほぼワンコードのような扱いである。こういう和音展開というのは、聞くものに強さを与えるような曲になるものである。マイノリティーの行進曲。しかし、絶望の果てにも光を携えているかのような、ある種の開き直りの曲といえようか。
 実は、このような歌詞の内容と曲想の矛盾というのは、マガジンの中心をなす芸風である。
 奏でる音楽は日の目をみない。でも、自分は心に宝石を持っているんだ……と歌われる A SONG FROM UNDER THE FLOORBOADS。歌詞は、曇り空の寒い日に、だれもいない町はずれの道を、頭をたれて足下を見ながら自分の内面に問いかけ、とぼとぼとを歩く孤独を連想させるのだが、キーボードはまるで鳥が空に舞い上がるような浮遊感と自由、ベースのラインはくすぐったくなるような愛おしいラインをきざんで飛翔する。つまり、ボーカルラインとベースラインは下降と上昇という対称(対立・矛盾)をなすのだ。この「矛盾」はとにかく歌詞と曲想にとどまらず、音楽の構成(ライン=メロディーの対立、和音の対立)などにもおよんでいて、マガジンの音楽をつらぬく大きなキーワードとなっている。
 そして、この矛盾はモリッシーの芸風でもある。モリッシーはスミス時代「ガールフレンドが意識不明になっちゃった。たいへんだ」という内容の歌を、まるで童謡の「春の小川」とか「ちょうちょ」を思わせるようなのどかな曲にのせて歌ったものである。マンチェスターで生まれたモリッシーが、己のマージナルな境遇を高らかに歌うこのマガジンというご当地バンドのライブの会場で、うっすらと目に涙を浮かべて、うっとり聞き入ってるのが目に浮かぶ。マイノリティーを自覚し、マイノリティーを愛するモリッシーのコンセプトの源流のひとつは、なんと、ここにあったのか!
 ……まてよ。モリッシーは名曲「ザ・ラスト・オブ・ザ・フェイマス・インターナショナル・プレイボーイ」のモデルは誰っていってたっけかな。

「ボウイ、ボラン、デボートと俺」

 デ、デ、デ、デボートと俺? 
 デボートと俺って、ひょっとして、このデボート? マガジンの? ひえー。しらなんだ。
 ついに、事典屋、ドキュメンタリストの職業病たる「検索病」の導火線に火がついてしまった。電話線をわが白林檎・GUILLAUME(PowerBook G3 333) の尻の穴に押し込むと、口蹄疫に取り憑かれた羊さんよろしく、英仏海峡と大西洋を行ったり来たり。ウツボ化ここに極まれり。
 さて、インターネットの繁みをちょっとつついたら、でてくるでてくる。やれ「モリッシーはバズコックスとデボートに特別な親愛と尊敬の念を抱いていると語っている(*6)」、やれ「モリッシーはデボートのコンサートの前にステージでプルーストの英訳本を朗読した(*7)」、やれ「モリッシーはデボートの彼女とも仲がいい」、揚げ句の果てに「モリッシーはデボートと共同生活をしていた(?)」なんてものでてきた。いずれにしても、モリッシーがデボートを特別に敬愛をしているというのは、欧米、特に英国、フランス(*8)では常識になっているようで、ジョー・ストラマーが米・ザ・ビッグ・テイクオーバー誌のインタビューで「モリッシーはわけのわかんないプロデューサーに任せたり、デボートのまわりをうろうろしたり。だからダメなんだよ、俺にプロデュースさせてみろよ」(*9)いう、嫉妬だか、批判だか、ぼやきだかなんだかよくわからない発言まででてくる始末。
 2000年2月25日付の英・ガーディアン紙(*10)に至っては、この楽曲を書く発端となったのは「デボートの存在」とまで言い切っている。ということは、その前の「ボウイ、ボラン」というのは単なるごろ合わせ、はたまた、愛情溢れるあまりの照れ隠しの枕詞だというのか。
 しかし、こうしたことは、日本ではほとんど言及されていないのではないか。スミスを解散した後、ソロとなったモリッシーの人と作品を語るとき、その繊細・マイノリティー・孤独、という本人の性向と、スミスのギタリストで作曲面のパートナーであるだけでなく、かけがえのない愛情と創造力の源になったジョニー・マーとの訣別による悲壮、という大きな負の磁場の上に成り立つもの、という文脈が圧倒的であるのだ。それにしては、スミス後のモリッシーというのは、堂々としすぎている。歌詞と歌のメロディーのほうはあいかわらず、自虐と逃避、弱者への愛などのモリッシー節なのだが、各アルバム、特にソロになってからの初期の四枚くらいまでは、アルバムごとに色が違っている。それも、スミス的ギターバンドというのを禁じ手として、他の方法論を自由に繰り広げているようにもみえる。それらは、「方法論を探る」というのではなくて、「確信犯」的な匂いがする。
 モリッシーはスミスに担ぎ出されることによって、もう引きこもりの「スティーブン少年」(*11)からは物理的に卒業しているはずである。それは、モリッシーが書いたスミスの楽曲の歌詞が、最初は自分の内面性に向けられていたものが、しだいに社会や、ロック・ジャーナリズムという公共に転化していったことで証明される。
 だいたい、己の弱さとか絶望とかを解消するためだけに作品を作るのであれば、何も人様にお金を出して買ってもらうというところまで、普通は至らないのではないか。モリッシーが、自分のいじけた思いや、ネガティブな事件から得た霊感を、作品に昇華するということは真実であろうが、それを「音楽」というある決まり事のある世界で起承転結させ、きめられた文字数で歌詞にし、歌い、録音してみんなに聞いてもらう、というところまで加工する過程には、最終的にこういう出来上がりにするとか、こういう雰囲気の、とかこういう和音構成で、という、作品を構築するための客観的な技術と見通し、はたまた計画がなければ形になどなりはしない。
 フランスの、いまやサブ・カルチャーマガジンの先鋒となっているレ・ザンロッキュプーブル誌(*12)でスミス解散表明時のモリッシーインタビュー(*13)というのがある。その時のモリッシーというのは、実に冷静そのものなのである。
 このインタビューは、一見淡々と語られているので、見るべきところの少ないものとも思えるが、重要なのはその日付。マーがスミスを離れたのはインタビューのされた87年の8月とされている。翌月、スミスは解散する。記事には「プレスにスミス解散のステートメントを出す前日にインタビューされた」と最後の方にひっそりとしるされている。(*14)
 モリッシーは、ここで、自分の過去、スミス、ジョニー・マーについて淡々と客観的に語っている。そこにはノスタルジーや嘆きなどは見当たらない。いや、胸の中に忸怩(じくじ)したものはあったにしても、きっちり対象化しているように読める。モリッシーは、これからのことを聞かれて「あたらしい楽曲を、スミスのエンジニアだったステファン・ストリートと書いている。88年のはじめにはソロデビューするよ。スミスと違ったものをすることになるだろう」とまでいっているのだ。それは果たして、その半年後には「VIVA HATE」という形となって我々につきつけられる。
 
  「モリッシーは、88年にデボートをステージに招き入れ、THE LIGHT
   POURS OUT OF MEを一緒に歌った」

 マガジンを知った今思えば、この「VIVA HATE」の一曲目、ALSATIAN COUSINは、モリッシーなりのマガジン世界のオマージュと翻案ととれないこともない。もしお疑いの向きがあるなら、どれでもいい、マガジンの楽曲を聴いた後に「VIVA HATE」を聞いてみて欲しい。全く違和感がないはずだ。88年のデボートとの接近は、実は確信犯で「マーがいなければそれはそれでよい、スミスと異なる自分の好きな世界を実現するチャンス」ととらえたのではないか。
 モリッシーはミュージシャンになる前、音楽ジャーナリストになりたかったのである。どちらかといえば、ミュージシャンのモリッシーというほうが、本人さえ思いもかけなかった隠された才能だったのではないか。たとえば、アルバム「KILL UNCLE」(91年)で作曲パートナーとして元フェアー・グランド・アトラクションのマーク・ネビンを起用するところなどは、そうした音楽批評家としてのモリッシーの鋭い視点があったからこそ実現したのではないか。
 聞いた話では、スミス時代からソロになってからも、モリッシーのレコーディングというのは、午前中から夜まで毎日きっちり行われて、スケジュールに乱れることが少ないという。前出のネビンの証言によれば、音楽プロダクションとか、曲の全体のビジョンというものは、スタジオに入る前に、モリッシーの頭のなかにしっかりあって、その枠内のパーツのようにやらされている、という感覚が強いのだという。ネビンは自分の楽曲に一体どんなメロディーや歌詞がつくか、最後の歌を入れるところまでわからなかった、ともいっている。だから、バックグラウンドがきっちりできて、いざ歌を入れるとなったとき、魔法のように楽曲が変貌し、完成していくのを体験できるのだという。
 そういうことからわかるように、モリッシーは単に我が身の不幸や振りかかる不遇な事件のあれこれをただ嘆いているばかりの人ではなくて、それを鏡として自分を対峙させ、どう作品化するか、という試練に自らをおける人なのである。もちろん、モリッシー自身の感受性は並外れて鋭く、傷つきやすい人には違いないのだろうが、そういう負のエネルギーを貰ったとき、そこからさらに作品を作るプラスのエネルギーに転換する、アーチスト魂という名の変換装置をもっているのではないだろうか。
 わたしは、マガジンを知るまで、この「ボウイ、ボラン、デボートと俺」発言の「デボート」というのはモリッシーの個人的な知りあいとしか思っていなかった。確かに、個人的な知りあい、仲の良いお友達なのは証明されたことになるのだが、これが、もとはといえば「モリッシーが尊敬していたミュージシャンの」ということになると、わたしはもっとも根源的なことを見落としていたことになりはしないか。
 ああ、ヨーロッパはかくも遠いのだ。

◆◆通奏低音の魔力◆

 ある日、売人はレッド・ツエッペリンの映像をみて、バンドについてこう思ったという。

 ドラム=エンジン
 ベース=ボディ
 ギター=運転手
 ボーカル=クラクション
 
 なるほど。ごもっとも。それぞれのブランドと排気量も是非お伺いしたいところ。

 ではマガジンの場合どうか。

 ドラム=タイヤ
 ギター=ボディ
 キーボード=クラクション
 エンジン=ベース
 運転手=ボーカル
 
 この車の場合、他のパーツはともかく、エンジンと運転手は取り換え不能である。この二つがだめになったらもう終わり。コース・アウトである。
 マガジンは、通奏低音的ベース(以下通奏低音とする)と語りのバンドだと考える。もちろん、このバンドのカオスのような、ギターや、コードワーク優先のキーボードや、リズムをひたすらキープし続けるドラムがなければ、この語りと通奏低音の魅力は立ち昇ってこないことは当然なのであるが、極端なことをいえば、おそらく、このボーカルと通奏低音という二つのパートだけでコンサートは持たせられるのではないか、とも思わせてしまうほどの存在感なのである。
 まるで文楽の太夫と太棹三味線である。
 ロックに限定した「通奏低音」と「語り」という形態ですぐれた組みあわせとして、わたしがまず思い起こすのは、ピーター・ガブリエルとトニー・レヴィンである。わたしはジェネシス時代と、ソロになってから5枚目以降のピーターのよい聞き手とはいえないのだが、4枚目まではとにかくしゃぶりつくすように聴いたものである。20年以上たった今でも、ボタンを押せばたちどころに歌詞がでてくる人間ジュークボックスと化すことができる。全く、ただでさえ限りあるメモリーをこんなことで潰すことはないのだが。
 わたしは幼少時から太鼓好きで、好きな音楽というのはだいたいドラマー本意で選んでいるようなのだ。そのグループのドラマーが好みだとはまる、というのか。それから「美声フェチ」である。声がいいと全部許されてしまうという……。それから、ピアノが上手い場合。これはわたしがピアノ弾きだからにほかならない。そういうわけだから、トニーとピーターにはまる自分というのは中学生だか高校生だかの自分にとっては驚くような組み合わせだった。しかし、考えてみると、わたしは文楽のような語りと通奏低音の芸能も大好きなのである。ピアノを弾いていても低音部とリズムを奏でる左手が大きくならないように気をつけないと、そっちばかり目立つようになってしまうという癖がある。今になって思ってみれば、そう不思議なことではなかったのである。
 ピーターのソロの場合、極論すれば、パーカッションやギターは誰がやってもいいかな、という気がしたものだ。しかし、不思議な音色のトニーの通奏低音にのったピーターのしゃがれボーカルというのは聴くものを不思議な世界に導いていく。いちど取りつかれると、もっと聴きたいと思うようになる。たぶん、これがなければピーターの成功というのはありえなかったのではないか。
 マガジンの楽曲は和音(コード)が3つしかない曲がほとんどである。少し増えてもまあ5つくらい。しかも、あるひとまとまりのテーマの和音変化が2つだとすると、その2つの和音、つまり変化する前の和音と変化した後の和音をギターとキーボードで一緒くたに鳴らしてしまう。つまり、コードが変化しても、ギターとキーボードの音のポジションは変わらず、あたかも一曲まるまる同じ和音で終わってしまうかのような錯覚すら覚えるようなアレンジなのである。ドラムはひたすらリズムをキープしていて、出過ぎるということはない、空気のような存在である。これだけでは、まるで騒々しい「環境音楽」である。
 さて、ここに太夫と太棹三味線が登場するとどうなるか。
 太夫であるデボートは、その美声、とはいえないまでも、一度聴いたら忘れられない印象的にして魅力的な声とメロディーラインで、装飾性の少ない文学的な歌詞を語る。太棹三味線(ベースギター)のアダムソンはその語りの、場合、場合に合わせて音色や奏法を変えていく。そして、アダムソンが奏でる一音の違いで、和音の違いを聴くものに悟らせるという、重要な役割を演じている。
 キーボードとギターが2つの和音を同時に鳴らす、ということはどういうことかというと、たとえば、キーボードが青い色、ギターが赤い色を出していると考えて欲しい。同時に鳴らす、ということは混ざって紫色になっているわけだ。そこに、アダムソンが青っぽい色をだせば、紫色は青っぽい紫に、赤っぽい音を出せば、赤っぽい紫に全体の印象が傾くのである。アダムソンは単音で表現するので、たった一音で全体の色味を変化させる、ということになる。アダムソンはこの2色の間を自由に行き来しながら、時々黄色い色や白い色や黒い色といった、赤でも青でもない第3の色の音を出し、聴くものをはっとさせる。
 この和音を色で説明することは、スクリャービン(*15)の神秘和音を思わせるが、アダムソンの出す音色というのは、まさに神秘的にして官能的であったりする。その上、彼の出す1音で、風景の色ががらりと変わるのであるから、神秘和音の真の実践者はアダムソンなのか、とも思ってしまう。だからといって、何も難しいことはしていない。拍子も4拍子、和音も3和音(ドミソ、など)が主で、われわれが小学校の音楽の授業で習ったような和音しか使っていない。それでもあれほどまで豊かで懐の深い音楽性をつくりあげられるのだ。
 アダムソン自身、彼のインタビューの中で、マガジンの加入時は18歳で、楽器をはじめたばかり。むろんテクニックはほとんどなく、楽曲作りもスリーコードの進行しかできなかったと告白している。(*16 )しかし、彼の奏でるラインというのは、時々、驚かせるようなポジションをとったり、2オクターブも3オクターブも和音の壁を突き抜けて駆け抜けることがある。しかし、それは意表をつくようなツボを押さえているようで、良く考えてみると、実に理にかなった氾濫であったりして、音楽的センスとか、天分とかがあるということはこういうことをいうのではないかと実感させられる。
 アダムソンは、マガジンなきあと、ニック・ケイブのバット・シーズに加入するも、同じ年に父親と姉妹(姉か妹かは不明)の一人を亡くし、鬱状態になったため、脱退。その後「架空の映画のための映画音楽」のシリーズを発表すると、その魔性の才能が開花する。最近では、デビット・リンチの「ロスト・ハイウエイ」の音楽に参加。リンチの魔性の異世界観、悪魔的退廃、暴力、官能美といったものと、アダムソンの視線の先にあるものというのは、すっかりシンクロしてしまったようだ。実際、アダムソンは「闇」と「光」というものに最も魅かれると、前出のインタビューで語っている。確かに、リンチの世界も、「闇」と「光」のフェティシズムというものでほとんどくくられるのではないかと思う。強い光には深い陰が、光は移ろい闇へと姿を変え、そして闇は光に消されていた魑魅魍魎を、あるいは官能を呼び覚ます。こうした意識は、おそらくマガジン時代、アダムソンは客観的に考えたこともないことなのであろうが、マガジンの音楽には、はっきりとその片鱗が現れている。いや、片鱗というより、粗削りな最もプリミティブな形で提示されているといったほうが良い。
 デボートの歌詞の世界は、内省的でどちらかというと温度や色気に乏しく、しまいには自己の存在を「空気に融合」(*17)させてしまう、というストイックなものである。時々「彼女」などというものが出てくることはでてくるが「気持ちがわからなかった」り「クスリで」正体不明にしたりする。そんなことがなにやら古い禅寺とかいうイメージになってしまうのだが、なんとか世俗に踏みとどまっているのは、通奏低音たるアダムソンの色気が「おいおいデボート兄さん、自然というのはセックスがないと滅亡するのだぞ」とたしなめているおかげのような気もしないでもない。
 
◆◆リ・ベ・ン・ジ◆

 ビルからメールが来た。いや、単なるビル・ブラフォードのオフィシャル・メーリングリストなのだが。うむむ。あのコンサートから早ひと月たってしまったのだ。なんだかビルに浮気を叱られている気がしてきたぞ。
 そもそも、ビルのコンサートの後の、正しい過ごし方というのは、毎日、朝な夕な、それまでのビルの業績を振り返り、一枚一枚ビルの音源を噛みしめるように聴き、寝る前には昔のインタビューを掘り返すというのがだいたい半年は続くという尊いものなのだ。それが、ビルのコンサートレビューを書くどころか、もう1万6000字もマガジンについて書いているていたらくである。一日一善ならぬ、一日一回はマガジンを聴かないと眠れないという体質になってしまった。これじゃ、モリッシーのDevorted to DEVORTOを笑えない。いくらアダムソンに色気があるからといって、こんなことでいいのか? 
 
 そんなとき、売人の所属するバンドの練習があるというので見にいった。(ジャーナリストである売人はロッカーでもあった!)
 バンドは売人(ベース)と、「ファンクは笑いだ」が信条なのに、なぜかみてくれは「サラヴァ!」時代の高橋幸宏というドラム氏と、気配りの優しい技術部長のギタリスト氏と、その日は欠席していた演劇青年のボーカル氏の4人編成である。
 売人のベースの音色はジョン・ウエットンの残り香がぷんぷんするというもので、ソリッドで透明感のあるタイトなドラムと、ノイジーで軽めの音色のギターと面白い「空洞」をつくっていた。メンバーはみな社会人なのだが、音楽への情熱を捨てられない様子で、音楽をとても愛しているようだった。
 売人は徹夜明けとかで何やらハイになっていて、わたしに気を遣ってサービスで「スターレス」などやってくれた。おお、本当にそらんじていたのね。
 でも、そのごきげんもいつまでつづくことやら。……そう、その日、わたしはマガジンを「ご紹介」していただいた「お礼」にと、即効性超強力習慣性麻薬を帯同してきたのだった。その名もセルジュ・ゲンズブルグのジャズコンピレーション。(*18)ゲンズブルグの綺羅星のごとくある楽曲群の中の超カッコイイ、ジャズナンバーばかりをこれ以上はないという絶妙の曲順でつづった、涙なしでは聴けない代物である。
 果たして、漏れ聞くところによると、効果はてきめん。すっかりゲンズブルグ中毒地獄の奈落に沈んだとのこと。ふっふっふ。これでリベンジ達成だ。ビルの怨念を思い知れ。ベルベット・アンダーグラウンド好きに刃物はいらぬ、セルジュのひとつもあればいい、ってね。

 たぶん、いや、十中八九、今度売人に会うときは、煙草は「ジタン」に変わっているはずである。
 
(2001/03/14)

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◇覚書みたいな注釈◇
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1)飯場:この新聞社では編集部のことをこうよぶことがある。

2)バッハおじさんと筆者のあれやこれやについては「ポリーニの鼻歌」をごらんください。

3)ラベルとペルルミュテール
・モーリス・ラベル Ravel, Maurice:(1875-1937) フランスの作曲家。代表作は「ボレロ」「夜のガスパール」「鏡」「水の戯れ」「亡き王女のためのパバーヌ」など。映像を見るかのような錯覚に陥らせるその作風ゆえ、同世代のドビュッシーと良く比較される。「印象派」という侮蔑的な言い方でひとくくりされることもある。筆者の考えでは、ラベルは「理性の人」、ドビュッシーは「感性の人」というところで明確に区別できるように思う。文学オタクであったドビュッシーは文章で情景を説明するがごとく、物事を表層からとらえることにその才能を究めたが、ラベルは「理性」を突き詰めるがゆえに、そこに神秘が現出するという大いなる矛盾を含んだ神秘空間をくりひろげる。冷たい空気の中に高温の蒼い炎が走るとでも言おうか。ピアノの名手だったが、作曲家としての方が名高い。ピアノ曲は冷徹なリリシズムとロマンティシズムが全編をつらぬく難曲中の難曲。ピアノ曲はオーケストラに編曲もされている。なお、バイオリン・ソナタ、ピアノ・トリオも何気に名曲。

・ブラド・ペルルミュテール Vlado Perlemuter:(1904- )ポーランド出身のピアニスト。10歳でフランスに移住。21歳でフランス帰化。モシュコフスキー、コルトーなどに師事。ショパン、ブラームスなどでは暖かい音色であるのに、ラベルでは冷徹にして霊的なロゴス世界の語り部に豹変する。

・ラベルとペルルミュテール:ラベルの作品に魅せられたペルルミュテールは、全曲を独習し、ラベルに会いに行く。そして、最晩年のラベルに直に楽曲について事細かな教えを受ける。1929年、ラベル臨席のもと全曲演奏会を催す。ラベル没後は、生けるラベル伝道師として鳴らす。本人も十分自覚があって、ラベルの楽曲の演奏法を著した「RAVEL D'APRES RAVEL(ラベルによるラベル)」(1989, ALINEA, France)などの著作がある。日本でも、昨年音楽之友社から、ペルルミュテールの手によるラベルの校定本「ラヴェル ピアノ曲集1」が出版された。

4)リファレンスのノンブル(頁数)の中で、その項目が独立項目として立項されている該当ノンブルだけでも書体を太字にしてもらいたかった。

5)Les Inrockuptible: 155, France, 1998

6)Thought to devoted to DEVOTO:デボートに愛情を捧げる、という発言から。

7)英国発: マガジン解散後のデボートのプロジェクトLuxuriaでのコンサートにて。いつごろかは不明だが、目撃証言多数。この朗読をテープをとった、というものまで有。

8)モリッシーが文学好きであったり、デボートがフランス語で歌ったり、フランスで活動したりしたこともあり、フランスではモリッシーやマガジンに好意的である。ちなにみ、デボートはカミュがお気に入りとか。

9)The Big Takeover: 46, USA, 2000
  しかし、このばあい、「わけのわかんない」の十把ひと絡げ、スティーブ・リリーホワイトは、勿論、除外してたんでしょうね、ジョー?

10)Guardian:英全国紙、公称100万部。

11)スティーブン少年:モリッシーの名前。Steven Morrissey

12)Les Inrokupubles:フランスのサブカルチャー週刊誌。1986年4月創刊。現在公称8万部。音楽(ロック、ラップ、クラシック<!>、ジャズ、ソウル)、文学、哲学、マンガ、映画、社会、政治など多岐にわたった評論、インタビュー、ニュース、レビューが載っている。論調は、ラジカルにしてシニカル。アカデミー賞受賞作品でも、そのお眼鏡にかなわなければ、一刀両断、ずたずたに切り裂かれる。しかし、「ル・モンド・ディプロマティック(「ル・モンド」派生のタブロイド月刊紙。国際問題の論文を扱っている)」のように、何時も憂いで黄昏ているばかり(筆者はこれはこれで好きだが……毎号世界情勢の終末感を実感できる読後感は「さわやか」ですらある)なのではなくて、素晴らしいものには絶賛の花吹雪を惜しまない。パリ版では、その週のおすすめイベントガイドとレコードや書評、展覧会評などがゲリラ的にタブロイド判で差し込まれる。このタブロイド判で特徴的なのは、フランスの中道高級紙であるル・モンド紙と提携していること。各ジャンルのレビューで「ル・モンド」の視点と同誌の視点と題して批評が載っているのである。たとえば、書評だと「ル・モンド」のセレクトした本と、同誌のセレクトした本が同じ数だけ一覧になって、それぞれがそれぞれの立場から評論をするのである。読者はそれを読むことによって、「公共的新聞」であるル・モンドと「ラジカルな先端雑誌」である同誌との視点の温度差を知ることとなる。日本人には、この雑誌のスタンスでどうして商売になるのかまったく不明。なぜか日本では見かけないので、筆者は直接定期購読をしている。定期購読をすると、たいへん面白いコンピレーションCDが3ヶ月に1度付いてきて嬉しい思いをする。

13)インタビューは1987年9月8日に行われた。タイトルは「スミス、幸福な日々」Les Inrokuputible: 8, France, 1987

14)このような事実は「売ってなんぼ」の鬼畜な出版界の常識では、大見出しに掲げてもよさそうなものだが、同誌ではそうしなかった。これがモリッシー側の要求なのかどうか、ということはわからないが、筆者は、同誌の配慮だと見ている。なお、このインタビューは同誌の創刊10周年記念号に再録されていて、この日付の意味がわからないものにとっては、なぜ、このインタビューが「記念号」にわざわざ取り上げられるのかわからない仕組みになっている。筆者自身も、このデボートとモリッシーの関連がわかった今の今まで、モリッシーのインタビューは貴重だから載せたのかな、程度にしか思っていなかった。しかし、今や鉛は黄金に変化してしまった。

15) スクリャービン、アレクサンドロ Skyabin, Aleksandr:(1872-1915) ロシアの作曲家・ピアノ奏者。初期の作品はショパン的ロマンチシズムに傾いていたが、その変拍子好き体質はその頃から炸裂している。変拍子といっても、全体の拍子が5拍子であるとか7拍子であるとかいう生易しいものではなく、全体の拍子は4拍子とか3拍子に保ちながら、右手のパートは13分割、左のパートは16分割しろとか一拍を右手は4分割のメロディーを奏でつつ3分割の和音を同時にやり(指は5本しかございません)、左手は5分割のアルペジオをやれとかいうはちゃめちゃなもの。しかも、左のベースライン(メロディー)は平気で2オクターブ、3オクターブを飛び越えていたりして、複合変拍子のさなか、命中させるのは容易ではない。おまけに和音はわけのわからない不協和音ばかり。だからといって不快かというとそうではなくて、官能的で摩訶不思議な空間を醸し出す。ピアニストは、そのメロディーラインの美しさにすっかり「騙され」て、いざやってみようと思い立ち、楽譜をみてあっとびっくり、といういやらしいものの筆頭にあげられよう。
スクリャービンはブラバツキーなどの神秘思想にしだいにカブレ、「神秘和音」などというものを提唱する。しかし、それは彼にとって別に新しい試みではなく、初期の作品が少しアバンギャルドになったに過ぎないと筆者は考える。スクリャービンのもともとというか、生まれつき持つ音楽体質というのがもう十二分に神秘的なので、そのままやってても十分オカルティストであるのに、本人は多分に「意識的」にオカルトに足を突っ込みたがった。つまり「あちら側に連れていかれてしまった」のである。こうなると、だいたいお笑いな行動にでるののが筋であり、スクリャービンもその例にもれず、「七色オルガン」などという、音によって違った色が出るというオルガンを考案したりして周囲の失笑を買う。
ピアノ曲はホロビッツによるものがお勧め。

16) Les Inrockuptible: 155, France, 1998

17) Back to Nature

18) serge gainsbourg du jazz dans le ravin: PHILIPS, France, 1996