台湾薬膳

 市川市にあるアトリエは家から4キロのところにある。
 我が家は小岩という東京都の極東の町にあるので、そこから江戸川をわたり、市川市にいくのである。天気の悪い日以外は自転車でいくことにしている。だいたい20分くらいでつく。不思議だが、車で行っても15分はかかる。5分よけいにかかるぶん、風の音やら、季節ごとに変わる花の香りやらを感じることができるとなると、自転車はなかなかいいものだと思う。わたしはこれを勝手に「ツール・ド・市川」と称しているが、沿線においしい台湾料理屋やら、手打ち蕎麦屋やら、フランス菓子屋があったりして、ロスタイムが出ることもしょっちゅうだ。最近、ある文豪が通っていたというカツ丼屋があることがわかり、そのうち寄ってみることにしている。
 台湾料理屋は、楊州飯店といって、台湾から移住してきてもう30年になる楊さんがやっているおいしい店である。ここは、もとはといえば幻想文学会(幻文)のもうひとりの小岩在住者が、やはり幻文の南條竹則さんに教えたのが運のつきで、すっかり幻文のたまり場になってしまったところだ。以前は何かというと、みんなでここで宴会を催し、それこそ貧血が起きるほど食べたものだ。なぜ貧血かというと、食べ過ぎで頭の血がすべて胃に集中してしまうからである。まるでローマ皇帝の究極の宴のようだが、薔薇の花が上から山ほど落ちてきて圧死するとか、そのような退廃、耽美とはほど遠い佇まいの店ではある。なにしろ、この店はつい先日まで、水洗トイレではなく、つまり、「おっこちトイレ」であった。店の出入り口も、触れたらくずれそうな代物で、蝋でできた見本のディスプレイも、ほこりがうっすらとかかっていて、どんなものがでてくるのか恐ろしい、というのが本当のところ。
 しかし、ここの料理はがんこな美食家もうなるほどうまい。その上安い。ひとり3000円も出せば、貧血が起きるほど食べられるであろう。名物は、自家製の腸詰め、イカ団子、魚醤やきそば、魚醤チャーハン、ビーフン、そして、楊さん自慢の畑(「江戸川区民農園」をレンタルしている)での収穫物でできる野菜料理である。自家製野菜であるから、野菜の味が濃く、たいへん美味である。塩は岩塩を使い、薄味である。この、薄味の店というのは、外食産業の中では大変貴重な存在なのではないかと思う。
 南條さんは、ある文学賞をもらった時、その賞金にさらに自腹を切って、中国で満漢全席(*)をしたというくらい、中華料理にはそうとううるさい御仁だが、彼が横浜の中華街にいったとき、イカ団子を食べたら、楊州飯店のそれに比べ、あまりのまずさにそのまま横須賀線に乗って小岩まで来て、楊州飯店でイカ団子を注文して食べた、とか、香港やら台湾から成田に着いたその足で楊州飯店に寄って腸詰めをつついて、「ああ、この店があるからこの日本でも生きてゆける」と言った、という逸話があるほどである。実はこのわたしもまた、フランスに行き、帰国すると、日本でやっていけるかどうか不安になり、しばらく鬱になるのだが、楊州飯店にいって魚醤やきそばをたべると「ま、いいか。日本にいても」と思う、癒しの店でもある。
 楊さんは、少し耳が遠いのだが、わたしが疲れている時はすぐわかってくれて、いつもスタミナがつくような料理を作ってくれる。最近気に入っているのは、ほうれん草とレバーの炒め物である。ほうれん草はもちろん、自家製。レバーは、どうしたらこんなにやわらかくなるの? というほど柔らかい。醤油とスープで味付けがしてあって、素晴らしく単純そうな料理に見えるが、自分でやろうと思ってもこの味は絶対に出せない。そして、口に含むとかならず幸せな気持ちになる。
 「薬膳」というのは、こうしたことをいうのではあるまいか。

(2001/1/4)

* 満漢全席 中国料理で二〜三日かけて食べる山海の珍味を集めた料理の称。満族と漢族の料理の集大成の意。ツバメの巣・フカの鰭など高級な材料のほか、熊の掌・象の鼻・蛇・猿なども用いる。