[幻想文学企画室通信]


5月16日(日)
 いよいよ学研様の修羅場真っ盛り、なのだが、明日の打ち合わせの準備も進めておかねばならず、浮き足立つ(笑)。いや、笑い事ではないぞ。
 したがって机の上には、右手に近世怪談本の山が、左手にアメリカン・ホラー関連書その他の山が、築き上げられるのであった。
5月17日(月)
 どうしてこう本気で切羽つまってきたときに限って、外せない用件が重なってしまうのか……などと考え込んでいるヒマもない。恐怖の事務所ミーティング3連チャンの日なのである。
 午後1時、H社のH氏(な、なんかとってもHな感じだゾ、あ、俺もH氏か)、来訪。掲示板を併読している人には分かっちゃいそうだけど、ま、いいか。ちなみに仕事以外の話は一切出なかった、とだけ言明しておこう(笑)。
 午後4時、別冊宝島編集部のI氏来訪。現在、共謀して進めている大特集の打ち合わせである。詳細は近日解禁予定、しばし待たれよ!
 午後8時過ぎ、『ホラーを書く!』のFさん、ゲラの回収ならびに「まえがき」「あとがき」等の原稿取りに来襲、じゃなかった来訪。あとがきを一読するなり、「ひっどーい、イドの怪物なんてぇ〜全然フォローになってないっすよ〜」と鼻息が荒い(なんのコトかは、ぜひぜひ現物を御参照ください)。
「ところでヒガシさん、章タイトルはっ!」「…………(やばい)」「忘れたんですか!」「(小声で)は、はい」「すぐ、やってくださいね、すぐ、ですよ」
 やたらと疲れた一日であった。
 眠い目をこすりながら、『ホラーを書く!』の各章タイトルを考案して送信、お褒めの言葉をいただく。
5月18日(火)
 桜桃書房のI氏より電話。『屍鬼の血族』は残り在庫500部程度と聞いてホッと一安心。なにせ値段が値段だけに(しかもけっこう強気の初版部数ゆえ)、心配していたのだ。即、増刷なんて贅沢は望みません、気長に売ってもらえれば……と、つましい私である。
 それにしても書店の平台で、同書と『屍鬼』を並べておく店が皆無に近いのは不思議。下巻と間違えて買っちゃうのを心配して!? まさかね(笑)。
5月19日(水)
『ダ・ヴィンチ』編集部のKさんから〈怪談之怪〉投稿原稿の第2回優秀賞選評を速攻で求められる。今回の優秀作は、テレビの寄席中継画面に幽霊が……という「貞子テイスト」な話。京極さんを筆頭に、「怪談語りの技巧」をしつこいくらいアピールした甲斐あってか、投稿作品も目立ってレベルアップ、というか傾向が変わってきた感じで、楽しみである。
5月20日(木)
 ポーラ文化研究所から『化粧文化』39号〈特集=髪〉が到着(地方小出版流通センター扱い/本体価格1700円/http://www.pola.co.jp/pola/culture/bunken)。
 小生は「貞子はなぜ怖い!?――毛髪とホラーの妖しい関係をめぐって」を寄稿しております。今回のポイントだった図版類も鮮明に出ていて大満足である(編集部のTさんに改めて感謝!)。
 他に永瀬唯「銀髪のアンドロイド、緑の髪のサイボーグ」、板倉克子「グリーンマンの身体論」、そして松山俊太郎大人の悠揚迫らぬ連載「古代インド人のよそおい」など、当サイト関係者にも興味深く読めそうな記事も含まれている。カラー頁、図版類も豊富で、特集テーマに積極的関心がなくても楽しめる(と思う)ので、何卒よろしく!
5月21日(金)
 光文社文庫編集部のOさんから原稿依頼をいただく。菊地秀行さんの『淫邪鬼』文庫版解説。昨年秋にも『妖魔姫1』の解説を書かせてもらったのだが、ありがたいことである。
「ああ、アレですか。あの作品ではここらへんが、とても……」などと即座に電話口でスラスラ出てくればたいしたものだが、実際は「え〜と、いんじゃき? ってえ〜〜とぉ……」とカンペキに失念、というよりも混乱しているのであった(光文社さんは特に「淫」の字が好みらしくて多用されてるしな〜。……ノベルス担当者の趣味か!?)。「月刊菊地秀行」おそるべし。
 ちなみに『淫邪鬼』は、アダルト・トレジャーハンター(!?)古城鷹也&真田浅葱が活躍する連作の2冊目、ですね。
5月22日(土)
 本格的修羅場である。
5月23日(日)
 シャレにならない修羅場である。
5月24日(月)
 学研ブックス・エソテリカ『幽霊の本』掲載の「近世幽霊百物語」(仮題)、全100話を、ようやく擱筆。
 いや〜しんどかった。独り百物語そのものが、というよりも、ひとつの話をどこまで凝縮できるか、ということに精魂を傾けつくした感じ。
 そもそも怪談というものは、一見不要とも思えるような、語りの「ゆとり」あればこそ怖くなるはずなので、その点今回は完全に逆行していることになる。まあ、それなりに筋の通ったものにはしたつもりなのだが……。
5月25日(火)
 国書刊行会より『書物の王国18 妖怪』(本体2500円)の見本が到着。
 おっ、なんだ目次のページ、綺麗に章タイトルが入っているではないか。これならわざわざ「解題のまえがき」を入れるまでもなかったよーな……。
 ご多分にもれず「妖怪」には大いにこだわりのある小生としては、入魂の編纂、のつもり。国書さんの良いところは、どんなにマニアックな作品でも(版権料が絡まないかぎり!?)こちらのリクエストが通るところにある。
 午後7時から事務所で別冊宝島編集部のIさんと某大特集本の打ち合わせ。なんと、Iさんのお住まいは、事務所がある菊川のひとつ隣の駅だそうな。そのせい、というわけでもないが、途中で近所のファミレスへ場所を移し、えんえん11時近くまで打ち合わせを続ける。お疲れさまでした!
5月26日(水)
 昨夜の打ち合わせをもとに、明け方一気呵成に企画書を書き上げて、Iさんあてに送信。折り返し「別宝」的アレンジを加えた改訂版が届き、めでたく企画書&依頼状が完成。いやぁスピーディだぜ! モバイル環境の有難味を実感することしきりである(もっともいくらハードが充実しても、担当の編集さんがタラタラしてたら仕方ないが。メールを数日間未読のまま放置するとか(笑)。その点、Iさんは本当に熱心かつ律儀な方で、小生なども範とせねば、と脱帽である)。
 結局まともに睡眠をとるヒマのないまま、よろよろと都立中央図書館へ。ムーの陰陽師紀行のための資料漁りである。今回のメイン・ターゲットとなる兵庫県・岡山県・福井県方面の地誌・民俗学文献を片っ端から借り出しては、チェック&チェック。
 出がけにポストを覗いたら、青弓社編集部のWさんという未知の方から原稿執筆の依頼状が来ていた。夜、御電話をいただき相談するも、2〜3日考えさせてもらうことにする。依頼の趣旨はまったくオッケーなのだが、小生あての「お題」が、ちょっと(笑)。……なんのことやら判然としない話でスイマセン。企画の性格上、まだオフなので。
5月27日(木)
 明け方、卒然と青弓社の依頼の件について閃いたことがあり、メールを発送。打てば響くように快諾の御返事をいただく、のは良いが、またひとつ自分で自分の首を絞めた気がしないでもないよーな……。
 ムー編集部の獅子堂(仮名/以後敬称略)に、取材先リストをFAXで送付。取材の段取りを整えてもらう。いつものことながら御苦労サマである。
『別冊宝島』の企画で、具体的にアクションを開始。まずは斯界の大御所K氏に連絡をとり快諾をいただく。幸先いいぞ!
 今月のSFMの件で、某センセイより問い合わせのお電話。他人事だと思って、そんな面白がられてもな〜(笑)。と思っていたら、今度は某編集者より、某作家さんから、この企画室通信の記述の件で、アッと驚くような問い合わせがあったと連絡が。みんな、ヒマなんだからもー。
 夜半、ホラーな編集者、じゃなかった、『ホラーを書く!』の編集者Fさんから電話。「最後につける年表、どーなったんですかぁぁぁ」「こ、今晩、仕上げます」「ワタシ、朝まで会社にいますから、必ず送ってくださいねぇぇぇ」「はーいぃぃぃ」……と、終始なごやかな会話を交わす。
5月28日(金)
 結局、午前中いっぱいかけて「日本ホラー小説年表」を完成させ、Fさんに送信。
 どうやら小生、年表作りという作業が好きでたまらないらしいと再認識(笑)。国内のみならず、海外の動向や古典から現代作品までの変遷も視野に収めた「モダンホラー・クロニクル」を試みたつもりなのだが……。
5月29日(土)
 宅配便に叩き起こされ、何かと思えば『幻想文学』55号が到着したのだった。相変わらず仕事の素早い発行人に感謝。しばし表紙を撫でまわして陶然と過ごす(気色悪い言うなー)。
 夕刻より南青山で開かれた有限会社タクト・プランニングの設立を祝う会に出席。早稲田出身の女傑、あ、いやいや、聡明なる御婦人方4名によって結成された新会社で、その出版企画部門を担当するのが「遊星からの編集X」ことFさんなのである(ただし営業品目に、ホラー映画製作やお化け屋敷のアトラクションは含まれていない模様)。
 最年少(だが、会場ではパワー全開で仕切りまくっていた……)のFさん以外は、いずれも小生と同年代。しかも同じ早大卒ってことは、きっとキャンパスで擦れ違っていたな、こりゃ。
 会場は、予定人数を大幅に上回る来場者で熱気むんむん。きょろきょろしていたら評論家の小谷真理さんに呼び止められ、いきなり漫画家の秋里和国さんを紹介される、が、騒然たる雰囲気の中、満足にお話もできず失礼しました。>秋里様&小谷様
 作家の森真沙子さんとミステリ評論家の千街晶之さんの姿を見つけて、3人でたらたらお喋りしていると、Fさんがぜいぜい言いながら寄ってきて、「こ、ここは長閑ですねえ〜、あっちは誰それを紹介してくれ、あの人はどこどこ、ってもう大変っすよ〜」(笑)。
 今回なにより収穫だったのは、今いちばんお会いしたいと思っていた作家さんとお近づきになれたこと。ちょっと仔細あってお名前は伏せるが、いやぁ予想どおりというか、予想を上回るというべきか、凄くて素敵な方でした。ホラー・ジャパネスクと怪談ニッポンの未来は明るいゾ!
 結局、帰宅したのが午前零時を回っていたため、寝るのをあきらめ、明日(じゃねえや今日だよ今日!)からの取材旅行の準備と、出発前に済ましておくべき用件の片づけに追われるうち、はや空が白みはじめた。嗚呼……。
陰陽師紀行
5月30日(日)
 午前7時前、ムー編集部の怪人・獅子堂、学研写真部のベテラン・カメラマンSさんと東京駅の新幹線改札で待ち合わせ、一路、西へ。最初の取材地は岡山県金光町だ。新幹線車内で爆睡後、寝ぼけまなこでヨロヨロ在来線に乗り換えて、気がつけばそこは長閑を絵に描いたような地方都市の街角(笑)。
 町役場振興課のTさんを訪ねて現地の説明を聞く。しかも! Tさんのバンで現地を案内していただけることになった。休日出勤だというのに、終始にこやかにおつきあいくださったTさんに感謝、である。いやマジメな話、土地勘のある方の案内なしでは、晴明塚道満塚も、海坊主形の奇怪な巨岩が圧巻だった山中の道満池も、おいそれとは探し当てられなかったに違いない。
 午後、いったん姫路へ出て、レンタカーを借り、休む間もなく加西市の法華山一乗寺へ向かう。うーん、働き者(笑)。しかし本当に働き者なのは、唯一の免許所持者として(あ〜情けなや>俺&獅子堂)、取材中ずっとハンドルを握り続けたSさんである。一方、小生は前夜の疲れもあって、後部座席で眠りこけていた……。
 一乗寺は、道満の師とも伝わる法道仙人(鉢を自在に飛翔させる法力をもったインド渡来の仙人様)ゆかりの古刹。広壮な境内にはちょっと妖しげな堂宇なども散在してイイ感じなのだが、何といっても印象深かったのは、法道仙人を祀る奥宮のさらに上にある「賽の河原」。山頂近くに「河原」というのも妙なものだが、巨大な岩倉の脇から湧出する細流に沿って、供養の石積みが急斜面に点在しているのだ。岩倉の根方には地蔵の石仏群が鎮座する。
 ぴしゃん。――という陰々とした響きにハッとなる。湧水が岩倉を伝って滴り落ちる音らしい。そろそろ陰り始めた木漏れ日のなか、巨石の彼方に、つかのま黄泉の光景が揺曳するかのようで……。
 姫路へ戻ってホテルに落ち着く。取材中のナビゲーターは小生だが、取材後の、とりわけ夜の巷のナビゲーションは、獅子堂の独壇場だ(笑)。この夜も、兵庫の地酒事情を徹底取材していた模様。その妥協を許さぬ真摯な姿には、毎度のことながら鬼気迫るものがある。
5月31日(月)
 七時に起床、そそくさと朝食を済ませ、レンタカーで兵庫県佐用郡へ。ここには、谷をはさんで晴明塚と道満塚が対峙しているという凄いロケーションの場所があるのだ! 佐用町公民館長のYさんに案内されて、まずは道満塚へ向かう。棚田の連なる小山の中腹で、地元の方二人と合流。農作業の忙しい時期にもかかわらず、本当に恐縮至極である。見晴らしの良い山頂に、目指す宝篋印塔が屹立していた。なかなか立派なものだ。塚を覆うように枝葉を茂らす古樹は柿の木で、たいそう渋い実をつける、とか。
 遅れて到着された甲大木谷地区総代のOさんに案内されて、今度は晴明塚へと向かう。こちらはさらに整備が行き届いており、今でも地区の祭礼センターとして機能しているらしい。ここの塚をひと目見るなり、思わず小生は驚きの声を上げたのだが……それについては『ムー』9月号の本チャン記事を是非ご覧ください(笑)。
 Yさんに「上月町にも晴明塚があると聞いたのですが」と訊ねると、たぶんあそこでは……と御親切にも越境(!?)同行してくださった。途中で道を確認しながらたどりついた場所は、国道から少し入った民家の畑中。灌木に隠れるようにして古びた石塔が二基、身を寄せ合うようにして立っていた。ううむ、これは我々だけでは絶対に探し当てられなかっただろうなー、とひたすら感謝感謝。前日のTさんといいYさんといい、本当にありがとうございました!
 その後、いったん姫路へ戻り、同市街を南に一望する広峯神社を目指す。スサノオ=牛頭天王を主祭神とするこの神社は、京都・祇園の本社ともいわれ、かつては播磨陰陽師の本拠地だったともいわれる。広大な敷地には、今は廃屋化した宿坊などが数多く点在し、往時の盛況ぶりがしのばれる。
 秩父・三峰神社の氏子である小生は、こうした山岳修験系の寺院とはやたらと相性が良い。撮影に余念がないSさんと獅子堂を尻目に、終始ハイな気分で神域を駆けずり回っていた(うーん、端から見たらヘンな人かも……)。いろいろ面白いモノを見つけたが、それは本チャン記事にて。
 このあと姫路から新幹線で京都に移動。駅近くのレンタカー屋でクルマをチャーターし、宵闇迫る洛北路を若狭へ向けて出発。大原を過ぎるあたりで日没を迎えると、沿道は民家の灯もまばらな真の闇。日中の撮影作業に続いて、神経を使う夜道・山道の運転と、カメラマンのSさんにはお世話をかけっぱなしである。
 夜九時過ぎに、ようやく福井県小浜市の宿に到着。チェックインのためフロントに立つと、「ヒガシ様にFAXが届いております」。なになに?「幽霊百物語のゲラです、明日中に戻してください。愛しています。少年社N」(←一部、脚色あり)
 ……さすがは学研様。40ページ分のゲラを、取材先で、一晩で見ろ、とは。ああ、ありがたやありがたや〜。
6月1日(火)
 某学研エソテリカ編集部のありがた〜い御配慮のおかげでゾンビ状態と化しつつ(笑)、若狭・八百比丘尼の取材を開始。今回のメインである空印寺さんに電話を入れると、一時間後に来てくれ、との事。海岸へ出て、人魚の像の前で、初夏の日本海を眺めながらポカンと時間をつぶす。
 ところで今回の取材では、新兵器としてサンヨー製のデジカメ「DSC−X100」(「ボクは……どうかしてたんだあ〜」という身につまされるCMでおなじみのヤツね)を起用した。これが大当たり。取材メモに使うデジカメは、とにかく軽くて速くて電池の保つのがイチバンと実感する。メモリがいっぱいになったら、PCカード経由で常時携帯してるサブノートにデータを移していけばよいので、撮影枚数を気にする必要もないし。必要があればその場で参照できるし。便利な世の中になったものである。
 時間になったので、一同おそるおそる空印寺へ。というのも、エソテリカ編集部の某氏(特に名を秘す)より、「マスコミ取材には厳しいお寺さんなので、くれぐれも粗相のないよーにっ」と散々脅かされていたのだ。けれど案ずるより産むが安し、当方の真面目な(どこが、だぁ? うるせーぞー)取材意図を説明したところ、快く取材や撮影を許可していただけた。ほーほほほ、やはり東&獅子堂コンビの人徳かしらん?>Masuda様
 しかし……八百比丘尼の由来を描いた秘蔵の掛軸の、無惨ともいうべき傷み具合には唖然。一時期テレビ取材が相次いだ際、長時間撮影のライトにさらされた影響だろう、と御住職。寺側の厚意につけこむテレビ屋さんの傍若無人というのはよく取材先で聞かされる話だが、それにしてもこれはヒドイ、と痛憤。
 八百比丘尼が入定したという洞窟や、比丘尼像の取材・撮影を済ませたのち、午後から市役所収入役のOさんを訪ね、八百比丘尼伝説に関する市側の取り組みや伝説・史跡の調査研究の現状についてお話をうかがう。八百姫神を祀る神明神社の世話役の方を御紹介いただき電話を入れると、「明日は不在なので今からいらっしゃい」との事。ラッキー!
 八百比丘尼が境内に庵を結んでいたという神明神社は、かつては広大な敷地に数々の社殿が甍を連ね、伊勢神宮と併称されるほどに栄えた大社だったという。参道を上がった右手に、八百比丘尼の霊を祀った八百姫神社があり、そこから上がった広場の一角に、比丘尼手植えの白玉椿が葉を茂らせていた。境内にある世話役のお宅で資料を拝見させていただいた後、海沿いの道を本日最後の目的地である勢浜へ。八百比丘尼の生家跡は、海に向かって開けた青田の一角、竹林の中にあった。
6月2日(水)
 取材最終日。今日は小浜市街から遠敷川を南へ下り、「八百尼」の石碑がある下根来の地を探索。「お水送り」の儀式で名高い清流「鵜の瀬」で一息ついたのち、さらに上流へ溯ること5分ほど、眼前に緑したたる別乾坤が! 遠敷川の湾曲部にかかる橋のたもとに開けた草地の奥に、目指す八百尼の碑がつつましく鎮座していた。橋を渡って、しばし散策。「鯖街道」と呼ばれる京への往還路の中でも最も古くから開けたという根来坂越えに至る一帯のたたずまいは、清流と緑陰と民家がこの上なく調和したエリジウムさながらで、思わず陶然となる。あ〜あ、こういう土地で呑気に暮らせたら……。
 帰路、沿道の白石神社に立ち寄る。比丘尼ゆかりの椿の群生林に鬱蒼と覆われた境内は昼なお暗く、いかにも神韻縹渺とした趣き。
 市街へ戻って、若狭歴史民俗資料館と市立図書館(郷土史・伝説関連書の整理が行き届いているのには感心させられた)で文献資料を最終チェックしたのち、京へ出発。京都市内に入ってから、まだ晴明神社に参拝したことがない、という獅子堂のリクエストで、一条戻り橋近くの同神社へ。小生はすでに何度か訪れたことがあるのだが、今回は境内の一角に、とても恥ずかしいものを発見。思わず大笑いしてしまったのだが……それが何かはあえて触れずにおこう、武士の情けじゃ(笑)。
 夜の新幹線で無事に帰着する。もう、へとへと。とはいえ、これだけ万事スイスイと取材が運んだのも珍しい。道満さんと八百比丘尼様の御高配に心から感謝!