[10月1日]
 連載をメールし、長篇Cと短篇Aをとりあえず起稿する。「著者のことば」から書きはじめる人って珍しいかも。さらに長篇Eのプロットに着手し、長篇Bに戻ってから夜は長篇Aのリニューアルにとりかかる。なんだか頭の中がぐちゃぐちゃしてきた。


[10月2日]
 書き忘れてましたが、このたび牧野修、森奈津子両先生のご推薦を賜り、西澤保彦さんなどとともに日本変態作家クラブ……じゃなくて日本SF作家クラブに入会させていただきました。以前は現代俳句協会にしか入っていない作家というポジションになんとなく執着があって逃げていたのですが、結局二年間で三つも入ってしまいました。もうこの辺で打ち止めでしょう。なお、早くても二年後ですけど、「BAD」で近未来を書いたので次は遠未来の話をと考えています。


[10月3日]
 またゲラが来るので執筆はお休みにして長篇Aの推敲に専念、プリントアウトに移る。


[10月4日]
 引き続き長篇Aの修正とプリントアウト、連載と長篇Bを少し進めてから夜は「十三の黒い椅子」のゲラに着手。頭を前後左右に軽く揺さぶられているような気分。


[10月5日]
 長篇Aの修正とプリントアウトが完了。ずいぶん時間がかかってしまった。あとは最終推敲を残すのみだが、とりあえずゲラが優先。
 毎週書いてるような気もするけど、今週も紀伊國屋Webから本が届く。ストレス解消を兼ねて本を買ったら必然的に未読本が増えてまたストレスがたまるというのは悪循環なのだが。今日届いたのはソール・A・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(産業図書)、斎藤綾子・南智子・亀山早苗『男を抱くということ』(飛鳥新社)、山田克哉『はたして神は左利きか?』(講談社ブルーバックス)など。


[10月6日]
 連載、長篇B、短篇Aを少しずつ進め、夜はゲラ。特記事項なし。


[10月7日]
 七時より赤坂「ですぺら」、中島晶也vs笹川吉晴のホラートークバトルに参加する。秋里光彦、東雅夫、千街晶之、日下三蔵、比呂(幹事)など十数名が参加。中島さんとは一昨年のSFセミナーのホラー企画以来。途中の怪獣話で和気藹々となったりして予想どおりバトルモードにはならず、いつしか展開は笹川vsその他のメンバーに。理屈っぽい面々の攻撃を受け、最も主観的でわけわかんない発言を繰り返す笹川吉晴(笑)。これからは「特殊評論家」と呼ぶことにしよう。ゲラが進んでいないので終電で帰るつもりだったのだが、あまりにもツッコミ甲斐があるので二時までいてタクシーで帰宅。お疲れさまでした。


[10月8日]
 読書メモです。小説は読了順に井上雅彦監修『夢魔』(光文社文庫)、柴田よしき『R−0 Amour』(祥伝社文庫)、真崎かや『声を聞かせて』(エニックスEXノベルズ)、島村匠『渋谷アンダーグラウンド』、山下定『おにごっこ』、立原透耶『ささやき』、明野照葉『棲家』(以上、ハルキ・ホラー文庫)。今週はひたすら国内ホラーを消化。しかし、隣接ジャンルのほうが読んでいて気分的に楽かも。小説以外は南條竹則『幻想秘湯巡り』(同朋舎)、中島義道『時間を哲学する』(講談社現代新書)、『ブルーガイド・グルメ最新そばのうまい店東京』(実業之日本社)。『幻想秘湯巡り』の作中作には暗坂鬼一というどこかで聞いたような老人が出てきます。著者は幻想文学会で「立って南條、寝て南條」と謳われた御仁ですが、ほんとに何を書いても南條さんだなあ。
[10月9日]
 私は評論と批評をわりと分けて考えています。ただし、その場合の批評はいわゆるジャンル批評ではありません。ジャンル批評を構成する時評・書評・解説などにはそれぞれイデアや縛りがあっておのずと優劣が生じるわけですけど(また言うまでもなく批評性も不可欠ですが)、便宜上ここでは考えません。では、評論と批評の違いは何でしょうか。評論には論理的構築性が求められます。その過程において常に何かを捨象していかないと「論」は構築されません。その捨象される部分、砂のように零れていく部分まで丹念に拾い上げていくのが私見によれば批評なのです。優れた批評においては書き手の思考の揺らぎや速度が文体に反映され、ある種の音楽性が醸し出されます。形式としては評論よりエッセイに近いものになりますね。その種の批評では「結論」はあまり重要視されず、思考の「過程」に重きが置かれます。評論は古風なミステリーで批評はコリン・デクスターと言えばミステリーファンには通じやすいでしょうか。個人的には評論より批評エッセイをもっと読みたいなと思いますね。並木士郎の常設コラムとかできないかしら。


[10月10日]
「十三の黒い椅子」のゲラの追い込み。思ったより赤字が入るのだが、下手すると作者がトラップにかかるので注意せねば。


[10月11日]
 ゲラを返送、やれやれ間に合ったか。しかしまだ長篇Aの最終推敲が残っているのだった。今月は書き下ろしのサイクルの変わり目だし、やや強迫観念化してきたノルマを下方修正します。でも、掲示板の書き込みや日記が増えて書く総量は変わらなかったりして。


[10月12日]
 五時より高田馬場で藤原編集室さんと打ち合わせ、ヒュー・ウォルポール『銀の仮面』(国書刊行会・2200円+税)の見本を受け取る。装幀は妹尾浩也さん、洋書風の紫の本でいい感じです。来週末には都内の主要書店に並びますのでよろしくお願いします。私の小説は合法的な犯罪みたいなものですが(そこまで言うことはないか)、この翻訳は世の中(と言うには狭すぎるけど)のためになったかなと思わないでもない。その後、黒服をむやみに買い、歌千代で野菜天せいろを食してから帰宅。


[10月13日]
 みなさん、こんにちは。黒猫のぬいぐるみのミーコ姫です。きょうは高瀬美恵さんの Water Garden のオフ会でした。ミーコはクラニーとサリーちゃんといっしょに出ました。六時から新宿・春風萬里、30人もあつまりました。ミーコはメイドさんのコスプレをしていきました。おともだちがたくさんいて、とってもかわいがっていただきました。二次会はカラオケ館、クラニーはまちがって入った「男の切札」というおうたをテキトーに作曲しながらうたってました。三次会は居酒屋志ろう、一時ごろまでおはなしをしました。でも、まだおわりません。四次会は13人でパセラ、ずっと朝までおうたをうたってました。クラニーがはじめてうたったのは「涙をふいて」「永遠の嘘をついてくれ」「イノセント」などです。ミーコはつかれてねてました。みなさん、たいへんおつかれさまでした。またあそんでね。おわり。


[10月14日]
 読書メモです。今週はお勉強モードだったので小説はお休み。読了順に大森荘蔵座談集『哲学の饗宴』(理想社)、永井均『〈私〉の存在の比類なさ』(勁草書房)、井筒俊彦『意識の形而上学』(中央公論新社)。『哲学の饗宴』を読んですっかり大森荘蔵ファンになってしまいました。「立ち現われ」などは私のかなり偏ったホラーマインドを刺激します。ゼノンの逆理の検討から科学に疑いの目を向けるところなんかドン・キホーテみたい。あと、ソシュールを巡る中村雄二郎とのすれ違いぶりもすこぶる面白かった。大森荘蔵はこないだから読んでいた中島義道の師匠で系統としては分析哲学なんですけど、それにしてはいやに泥臭いところがいいですね。永井均の〈私〉についてはどうも誤読していたふしがあり、いまだに議論が厳密になると理解できなかったりするのですが、ひどい誤読をして同書でめちゃめちゃけなされていた哲学の先生もいるくらいだから仕方ないか。一読ずいぶん元気が出た箇所を引用します。「私は普遍的理性のようなものを信じてはいない。ウィトゲンシュタインを真似て言うなら、『その精神に友好的に臨んでくれる人々のため』にしか書くことができない。この場合それは主として、大人になる前に(原文、傍点あり)、私と同じ(あるいは似た)問題に多少とも捕われ悩まされたことがある人のために、ということになるだろう。ある種の人々にだけ通じる話というものがあるように、ある種の人々の眼にだけ世界を明るくする真理というものがあると思う」。『意識の形而上学』は碩学の遺著。構想どおりに完結すれば凄まじい高峰が残ったのに。こんな学者は二度と出ないかもしれない。
 予想どおり日記が長くなってきましたが、もう少し。私の作品には離人症的感覚が共通低音として響いているようですが、ある種の哲学にも同種の音が響いていることに気づきました。青年期に離人症的感覚を抱く人はわりと多いと思いますけど、普通は持続することなく橋を滞りなく渡って大人になっていくのです。しかし、橋の途中で川に転げ落ちてしまう人もいます。そういう溺れかけた人に救いの手を差し伸べるのが文学や哲学(ほかにも宗教とか音楽とかいろいろあるでしょうが)であって、橋をそのまま渡っていける人にはそれらはまったく無縁なわけですよ。ちなみに、私の「哲学」は文学寄りのバイアスが相当かかっていますが。
[10月15日]
 午後一時過ぎに突然部屋の扉が開き誰かが侵入しようとしてきたので、すわ強盗かと驚きあわてたのだが、よく見ると管理人に付き添われた両親だった。こちらは電話を待っていたのにいっこうにかかってこないから首をかしげてたんですけど、親父はひたすら携帯の操作ミスを繰り返していたらしい。そこで迷いながらマンションに押しかけたもののインターホンの使い方がわからず、管理人に鍵を開けさせるという実力行使に出たようだ。いかにも田舎者である。とりあえず部屋を出て「とお山」で食事をしたのだが、食べてる最中に蕎麦湯を注ごうとするし、いきなりワサビを全部入れるし、本格的な蕎麦屋はいちいち説明しなければならない。ほとんど「田舎の事件」である。なお、私の小説は田舎では誰が読んでもわからず、なぜこれで作家としてやっていけるのか一様に首をひねっているらしい。そりゃそうでしょう、本人も半ばそう思ってるんだから。帰宅後、京フェスの前日の宿を確保しようと試みたのだが、いやと言うほど電話しても満室ばかりでやむなく大津のホテルを予約する。完全に出遅れたかも。


[10月16日]
「小説すばる」11月号が届きました。幻想ホラー連作の掉尾を飾る短篇「紫の館」が掲載されています。最後なので少々わがままなものを書かせていただきました。初の連作が完結してほっとしたのも束の間、来年から風変わりな縛りのあるブラックユーモア系の連作が始まる予定です。


[10月17日]
 例によって紀伊国屋Webから本が届く。今日届いたのは大森荘蔵『時間と自我』『時間と存在』(以上、青土社)『流れとよどみ 哲学断章』(産業図書)『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫)、永井均『〈子ども〉のための哲学』『これがニーチェだ』(以上、講談社現代新書)『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)『マンガは哲学する』(講談社)『転校生とブラックジャック』(岩波書店)『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ナカニシヤ出版)。とりあえず永井均は全部読もう。
 夕方から長篇Bの取材を兼ねて浅草へ、長浦で好物の胡麻切そばを食し、本とCDと黒服を買って帰宅。


[10月18日]
 連載・短篇A・長篇Bを少しずつ進める。特記事項なし。


[10月19日]
 日本将棋連盟より初段の免状が届く。囲碁の四段の免状より箱が立派なのは競技人口の差だろうか。名人と竜王の直筆サイン入りなのですが、よりによって羽生の失冠中に取得してしまうとは。かえって希少価値があるかもしれないけど、丸山忠久名人って一般の人は知らないよな。


[10月20日]
 短篇Aを最後まで書き、連載を進め、長篇Bのプロットを練り直す。ちょっとまた睡眠障害気味で調子が悪いから夜は静養。


[10月21日]
 読書メモです。小説は貫井徳郎『神のふたつの貌』(文藝春秋)、舞城王太郎『煙か土か食い物』、佐藤友也『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』(以上、講談社ノベルス)、西澤保彦『異邦人 fusion』(集英社)、井上雅彦監修・異形コレクション『玩具館』(光文社文庫)。来年少しだけかぶったところのある長篇を書く予定なので『神のふたつの貌』は興味深く読みました。内面の葛藤や殺人におけるフラットな描写が効果的なのですが、私はこういう書き方だとカタルシスを得られないな。「依存」の作者がこの作品を高く評価するのはとてもよくわかりますね(キイワードは反復)。『異邦人 fusion』にも共通低音が響いていて、その隠蔽しがたい作家性および文学性のゆえにジャンルコードが歪んでミステリーとしてもSFとしても壊れてしまうあたりが個人的にはツボでした。蛇足ですが第五章は思わず興奮してしまった(笑)。やっと今年話題のメフィスト賞に手が回る。まともな人間が出てこなくて頼もしい限りですけど、文体とセンスが合うのは『フリッカー式』のほうかな。主人公のお姉さんが正体を含めて秀逸。いずれ邪悪なホラーを書いてくれないかしら。『玩具館』のベスト3は飛鳥部勝則「お菊さん」、飯野文彦「怪魚知音」、浅暮三文「喇叭」。「お菊さん」は久々に琴線に触れる怪奇小説で新鮮な驚きだった。これは秀作でしょう。「怪魚知音」の鍵のくだりでは一瞬作者の正気を疑いました。私に疑われるのはいかがなものかと思うぞ。「喇叭」はスラデック風のスペキュレイティヴな味が心地いい。
 小説以外は斎藤綾子・南智子・亀山早苗『男を抱くということ』(飛鳥新社)、田邉昭二『壊れやすい人間の日々 ある精神科医の記録』(ラ・テール出版局)、内藤みか『奥さまは官能小説家』(アスペクト)、瀬名秀明『奇石博物館物語』(KTC中央出版)、大森荘蔵『時は流れず』(青土社)、井上昌次郎『睡眠障害』(講談社現代新書)。大森荘蔵はフモールと和語を交えた明晰な文章で思ったより読みやすい。前半の「物語りとしての過去」から「時は流れず 時間と運動の無縁」までは椅子を厳密に逆さまに積み上げてその上に座ろうとしているような按配ですこぶる面白く、主張も首肯できるのだが、逆にそういう哲学者の営みを批判した後半の他我問題はあまりピンと来なかった。
[10月22日]
 短篇Aをプリントアウトし、連載と長篇Bを進める。本格ミステリのアンケートが届き、もうそんな時期なのかとうろたえる。豊作の今年くらいは海外部門にも投票しようかと思ってるんですけど、問題は国内の消化だな。


[10月23日]
 一日に3枚以上書けない連載を進め、久しく放ってあった連作短篇Bに戻り、別の連作の構想を練り、長篇Cに飛ぶ。長篇Cは小味なパズラー(当社比)なのでラストの一行を先に書いたのですが、この書き方は思い切り失敗しそうな気がしないでもない。


[10月24日]
 連載を少し進めたものの疲れのせいか言葉の質感がいまひとつで打ち切り、アンケート用の読書に逃避。


[10月25日]
 長篇Bがやっと50枚をクリア。基本的に短篇型しかもフラグメントの人なので、長篇の最初の百枚は苦痛である。筋がなきゃいいんだけど。しかし、後半になると必ずピッチが上がるからここは我慢して書くしかない。最初の5キロで大きく出遅れて勝負の大勢が決したころに猛然と追いこんでくる二流のマラソン選手みたいなものですか。


[10月26日]
 五時より高田馬場で幻冬舎のS儀さんと打ち合わせ、長篇A「青い館の追憶」の原稿を渡す。待ち合わせの場所に指定したジァンナンが先月末で閉店していたのでびっくり。トムソンがつぶれたとき以来のショックだなあ。青春の思い出の場所(というほど明るいものではなかったけど)が一つずつ失われていきますね。やむなく白百合に移り、打ち合わせを済ませてから芳林堂で本を買い、なんとなく小滝橋方面へ歩く。こちらもずいぶん知らない店が増えていた。蕎麦屋を一軒開拓して八時過ぎに帰宅。
「小説推理」12月号が届きました。連載「The End」第2回が載っています。やっと第一章が終わりました。それから、鷹城宏さんが「探偵小説美味礼讚」で拙作『四重奏 Quartet』を取り上げてくださっています。昔は批評も手がけていたとはいえ小説はわりと作家性の赴くままに書いているのでアナモルフォーズはとくに意識しなかったのですが、この読みは秀逸で実にありがたかったです。また、シャーリイ・ジャクスンからの伝言を初めて正確に読み取ってくださったのでついでに書きますと、講談社ノベルスのシリーズ(とは言えませんが)の隠しテーマは「ずっとお城で暮らしてる」だったりします。いや、ことによるとミステリー系列の著作は全部そうなのかも。私にとっての永遠の謎は〈私〉だったりするから、このあたりの自己分析はできないのですが。


[10月27日]
 連載、長篇B・Cを進め、夜は『十三の黒い椅子』の再校ゲラに着手。まだ赤字が入る。延々とモグラ叩きをやってるような気分。


[10月28日]
 読書メモです。小説は読了順に田中啓文『鬼の探偵小説』(講談社ノベルス)、鯨統一郎『鬼のすべて』(文藝春秋)、黒田研二『硝子細工のマトリョーシカ』(講談社ノベルス)、小川勝己『眩暈を愛して夢を見よ』(新潮社)、物集高音『赤きマント』(講談社ノベルス)、門前典之『建築屍材』(東京創元社)、秋月涼介『月長石の魔犬』(講談社ノベルス)、飛鳥部勝則『砂漠の薔薇』(カッパ・ノベルス)、柳広司『饗宴 ソクラテス最後の事件』(原書房)、霧舎巧『マリオネット園』(講談社ノベルス)。というわけで、今週はひたすら国内ミステリーを消化していました。ちょっと焦って早く読みすぎたかも。おかげで『鬼の探偵小説』の言葉遊びや『眩暈を愛して夢を見よ』のミステリー同人誌や『建築屍材』のあるトリックや『砂漠の薔薇』の絵の中の髑髏などが頭の中でゴチャゴチャになって面妖な図柄を描いています。それにしても最近とみに内角高めのくそボールしか打てないバッターと化しており、球が真ん中に来ると呆然と見逃してしまう。小説以外は永井均『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)、ヴァルター・ブルケルト『人はなぜ神を創りだすのか』(青土社)。
[10月29日]
 連載の第一稿をとりあえず仕上げてプリントアウト、各種アンケートの下書きをし、長篇B・Cを進めてから夜はゲラ。バタバタしているわりにちっとも片付いていない。


[10月30日]
 ゲラと各種推敲に専念。まだ国内ミステリーの消化中ですが、コンセプトが決まったのでアンケートも投函。昔は手書きだったのに、たまに手で書くとひどく面倒に感じる。


[10月31日]
 連載、短篇Aの原稿と連作の構想をメール。献本リストを作って別のアンケートを投函し、長篇D・Eのプロットを進め、夜はゲラ。再校なのにぐずぐず赤字を入れてるのは「サイト」以来。
 今月の執筆枚数は172枚、稼働日数25日、一日平均は6.9枚でした。7枚を切ってしまった。