[99年1月上旬]



 [1月1日]
 本年もよろしくお願いします。
 紅白は毎年見ているのだが、今年は初めて聴いた天童よしみ「人生しみじみ」の作曲者が曾根幸明で、以前のヒット作・山川豊「流氷子守歌」(これは傑作でしょう)と同じ技を使っていたのが最も印象に残った(すいませんね、どんな話題でもマニアックになってしまう性分で)。藤あや子は某氏が仕入れているかもしれないから、次のターゲットは「河内おとこ節」にするかな。
 私としてはけっこう年賀状をいただいたような気がするけれども、数行にわたって励ましの言葉を書いてくださったのは、いまだになにかと話題の両君であった(笑)。だから、近親憎悪だっちゅうに。
 それから、田中幸一氏が「新年の抱負」として『赤い額縁』を大々的に取り上げてくださっていたので、思わずのけぞってしまった。「庶民性と趣味人性が調和したユニークな個性は、最近の権威主義的に下品な『重厚長大』な作品とは一線を画し、かつての純文学作品にも似た、近年に稀な清々しい上品さすら感じさせた」などと書いてあったぞ。ありがたいことだなあ。
 それにしても、私はあまり人には合わないし、よほど用事がないと電話もかけないし、人付き合いのいいほうではないのだが、どうしてトラブルメイカーの知り合いばかり増えるのだろう? これはきっと、私があまりにも温厚で情のあるバランスのとれた常識人だから、かえって正反対の資質の人間と気が合うんだろうな。うんうん、そうに違いない。



 [1月2日]
 今日はホラー帝国の地図を書き直してみます。鉄道を引けばわかりやすく説明できるんですよ。
 ホラーとテラーの違いというのは以前からよく言われています。要するに、テラーは形而上的な恐怖に限るもので、ホラーはより一般的な恐怖全般を指すものです。テラーには崇高美[サブライム]があり、ホラーは必要としないとも言えるでしょう。で、ホラー帝国の首都はテラー、ここから鉄道が出発します。首都と言っても寂れたたたずまいの古都で、あまり人口は多くありません。郊外の森には吸血鬼や狼男が跋扈しておりまして、このあたりまではホラーというより怪奇小説と言ったほうがしっくりくる趣です。列車は進み、最大の都市ホラーに到着します。こちらは人口が多く、遊戯施設も多い。さらに、この町からスプラッターへ支線が延びていて、ここではさらに楽しいことが行われています。 ちなみに、テラーとスプラッターの人々は仲が悪く、ほとんど交流はありません。
 さて、列車は隣接するミステリー共和国に入ります。最初に停車するのはスリラーです。
ちなみに、ひとつ手前にチラーという小さな駅があるのですが、これは無視してもいいでしょう。スリラーという町にはサイコが多く、一見ホラー領のようですが、スーパーナチュラルな要素を欠くので歴史的にはミステリー領です。もっとも、ミステリー共和国にはテラーを除くホラー領を全部占領しようとしている人々がいますし、テラーにも分離独立を望む民族主義者がいたりして、情勢は混沌を極めています。
 テラー・ホラー・スリラーと進んできた列車がたどり着くのは、ミステリー共和国の首都・本格パズラーです。しかしながら、遠く隔たっているとはいえ、二つの首都には同じ民族が住んでいたりします。すなわち「ゴシック」です。衣装を換えれば一人二役ができそうです。例えば、いま言った一人二役は分身、暗号は呪文、バールストン・ギャンビットはゾンビ、密室から姿を消した犯人は幽霊……というふうに、同じゴシック民族ですからコードを換えられるわけです。それでまあ、私はテラーに住んでいるのですが、同じ民族のいる本格パズラーへ直通の地下トンネルを掘ったり、ホラーやスプラッターに出張に行ったりしているわけですね。
 ところで、こういったジャンル分けが必要なのかと疑問視する向きもあるでしょうが、これについては「罰がなければ、逃げる愉しみもない」という安部公房『箱男』のエピグラムを引用しておきましょう。要するに、「罰」というのは俳句の定型だったりミステリーのコードだったりするわけですが、「ジャンル」もこれに相当します。ジャンル分けがはっきりしていなければ、ジャンルミックスの愉しみもないのですよ。
 というわけで、今日は比較的わかりやすかったような気がするな。



 [1月3日]
 今年は読み逃していた長篇を片づけるのが目標の一つ。そこで第一回はキム・ニューマン『ドラキュラ紀元』(創元推理文庫・980円)。イギリスの伝奇ロマンといった趣で、ホラーだがテイストはSFに近い。同じ吸血鬼物(吸血着物って怖いかも)でも、私が書いているものとは全然違う(当たり前だ)。前半はディテールがとても面白かったのだが、後半はちょっと好みからずれるかな。とりあえず続篇は積んでおこう。
 周到な参考文献には『別冊幻想文学・ドラキュラ文学館』が入っており、「その道の泰斗十人余によるエッセイ」と紹介されていた。私も書いているのですが、いったい何の泰斗なのだろうか(笑)。もう一冊なつかしい本は、ドナルド・ランベロー『十人の切り裂きジャック』(草思社)。この本、「幻想文学」の前身の同人誌「金羊毛」で書評したことがあるんです。で、「貴重な写真が多く、屍体愛好家[ネクロフィリア]にはこたえられない」と書いたところ(18年前からあまり進歩してないぞ)、「夜想」の編集長が「ネクロフィリアは実物を解体したりすることで快感を得るのであって、写真では興奮しない」とずいぶん文句を言っていたらしい。なるほど、そういうものかと感心した記憶がありますな。



 [1月4日]
 今日は日記です。
 川口そごうの古本市の最終日に出かける。行列は死ぬほど嫌いなので、ゆっくり見られる会期のあとのほうも落ち着いていい。
 まず例によってガラスケースへ行ったのだが、今回は目の保養ばかりでなく、手が届くものがあった。「キネマ旬報臨時増刊 怪奇と恐怖」(1969)で、5千円の値がついている。さすがに迷ったけれども、表紙にでかでかとイラストされたクリストファー・リー(なかなか雰囲気がある)が、「おまえが買わずして誰が買うんだ。一週間、誰にも買われなかったんだぞ。このまま売れ残って俺に恥をかかせる気か」などとささやくので、思い切って購入。それにしても、係員にガラスケースの鍵を開けさせるのは実に気分がいいものである。
 帰宅後に開くと、いきなりわが心の怪奇映画「顔のない眼」のスチール写真が飛びこんできたではないか。ほかにも写真満載で保存状態良好。内容も、都筑道夫のエッセイ「怪奇実話」に始まり、「吸血鬼ドラキュラ」「東海道四谷怪談」のシナリオ、大伴昌司編「怪奇・恐怖・幻想映画あんない」「怪奇・怪物ものしり小事典」などなどの充実ぶりである。巻末の「名作ガイド・世界の怪奇小説11」はあらすじ紹介と極端な抄訳の中間形態という珍作。なにしろブラックウッドの「柳」が1ページしかない。とにかく、これは買って正解だったような気がする。
 さすがに、ほかは千円以下の本。フィリパ・ピアス『こわがっているのはだれ?』『トムは真夜中の庭で』(いずれも岩波書店)、デュシャトー『五時から七時までの死』(ポケミス)、エラクレス&シュザノスキー『笑死小辞典』(立風書房)、間羊太郎『ミステリ百科事典』(教養文庫)、藤原宰太郎『悪魔恐怖館 怪奇ミステリー事典』(KKベストセラーズ)、長尾豊『黒魔術・白魔術』(学研)、ウォルター・R・ブルックスほか『幽霊たちの館』(講談社青い鳥文庫)。
 いちばん驚いたのが『幽霊たちの館』(初版86年)。子供向けだが、なんとA・M・バレイジの「蝋人形」が「殺人者のへや」というタイトルで訳されているではないか。実にこれは「新青年」以来である。他のラインナップは、キャサリン・ストー「牧師館のクリスマス」、ウォルター・R・ブルックス「ジミーとよわむし幽霊」、ジョン・ゴードン「ひびわれた記憶」、ランス・ソールウェイ「かわいいジュリー」、ジョン・ケンドリック・バングズ「ハロビーやしきの水おんな」、最も有名なのがバングズだったりする。解説に「バレイジの経歴はわからない」と書いてあるところを見ると、何かのアンソロジーを引き写したのだろうが、ちょっとあたりがつかない。いずれにしても、子供向けの本は侮れないものだ。



 [1月5日]
 今日は覇気のない日記です。
 暮れの有馬記念が悔しかったので、初詣の代わりに珍しく幕開けの金杯を買いに行く。狙いは穴馬シグナスヒーロー、手広く流したのだが、またしても3着だった。また、大荒れの京都金杯は、人気薄のヒカリサーメットに敢然と単穴を打ち、見事1着になったものの、結局一銭にもならなかった。秋の拡大馬連まで待つかな。
 初詣らしいものは一度しか行ったことがない。ずいぶん昔、幻想文学会のイヴェントで浅草の観音様にお参りしたのである。そのとき生涯初めておみくじを引いたのだが、出たのは「凶」だった。確かに、あの年は何もいいことがなかったような気がするな。ちなみに、それ以来おみくじは引いていない。



 [1月6日]
 今月は「モダンホラー強調月間」なので、未読でいちばん気になっていたチャールズ・L・グラント『ティー・パーティ』(ハヤカワ文庫・品切)を読む。これはきわめてオーソドックスな作りの田舎ホラーで、心が洗われますね。派手なシーンもあるのですが、石の花に襲われる場面を筆頭に描写は上品。グラントは「呪われた町」を七回読んだらしく、「屍鬼」と読み比べてみるのも一興かも。ここでも起き上がったりしてますから。それから、ウィンダムの「呪われた村」も入っています。「ローズマリーの息子」のおかげで評価が落ちた「ローズマリーの赤ちゃん」に代わるベストテン候補でしょう。
 出無精だし二時間もタバコを吸えないのはつらいので、映画館にはめったに行かない。で、遅ればせながら「スクリーム2」を観た。個人的にはもう少しメタが欲しかったけれども、続篇としては健闘でしょう(去年観た「マニアック2」は怒ったな)。それにしても、アメリカで渋いホラーが受けないのはよくわかりますね。私の大好きな「モスキート」とか全然ダメだろうな。
 さて、恐怖の夏来健次コーナーです。今年の創元の本格アンケートにおけるターゲットは三橋暁だそうです。「地獄へ落とす」とか言ってるぞ。怖いよう。でも、べつにターゲットが新しくなったわけではなく(池上批判は反応がないからやめるようだ)、私が編集長だった同人誌でも夏来健次は三橋批判をやっていたのである。ほかに芸はないのだろうか? 久しくネタが変わらなかった晩年の人生幸朗のボヤキ漫才みたいだぞ。



 [1月7日]
 今日は笠井潔と「第二芸術」というテーマで書いてみます。ぐちゃぐちゃになるかもしれないけど。
 まず、批評と評論の違いについて押さえておきますと、批評というのは感想をコアに成立するものですから、まあ小林秀雄でいいわけです。いっぽう評論というのは、たとえ出発点に感想があっても、批評とは違って「構築性」を必要とします。評論を構築するためには、ジャンル的読書量もさることながら、体系的思考やパースペクティヴなど、さまざまな条件が必要とされます。したがって、笠井氏のように長めの評論を無条件で短い批評より上位に置く考え方は、ある意味では正しいのです。批評めいたものは誰でも書けますが(むろん一流の批評は別ですけど)、評論はおのずと限定されてくるわけですね。しかしながら、それは「第二芸術」論と同じメンタリティじゃないかと思うんですよ。
 桑原武夫の「第二芸術」論は大論争を巻き起こした俳句批判です。無記名でプロの俳人の句と素人の句を取り上げ、「どれがプロの作品か区別がつかないじゃないか。こんなものは近代芸術じゃない。第二芸術だ」と批判したわけですね。これはきわめて近代的な知性(ネガティヴな意味で使っていますが)です。
 俳句と批評というのは、実は似ています。同じような第二芸術批判ができるんです。試みに、凡庸なプロの書評とネット界の定評ある書評家の文章を抜粋して並べて提示したら、たぶん区別がつかなくなることでしょう。
 だから、頭ごなしに評論を優越させるのはある意味ではもっともだし、単なる印象批評しか書けない自称評論家を批判するのも当然なのですが、それはあまりにも思考が近代的なのではなかろうかと素朴な疑問を感じるわけですね。付随して言えば、「天啓シリーズ」で「近代の特権的な大文字の作者を消す」というテーマに取り組んでおられるわけですが、俳句はすでにやってるんですよ(むろん『天啓の器』は非常に面白かったのだが、それとこれとは話が別)。要するに、俳句のみが人口に膾炙している例は多いわけです。「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句は有名ですけど、作者の「中村草田男」はすぐ出てこないでしょう。
 予想通りぐちゃぐちゃになってきましたが、なぜこんなことを書いたかというと、個人的には構築的な評論より引き締まった短い批評のほうが好きだからなんですね。紹介と芸と批評が三位一体となった書評や短い解説が好みです。まあ週刊誌などの書評の大半は、批評の深度があまりにも浅くて食い足りないんですけど。
 というわけで、なんだか絵に描いたような蟷螂の斧でしたな。



 [1月8日]
 一冊だけ読み逃していたショーン・ハトスン『シャドウズ』(ハヤカワ文庫・品切)を読む。一本調子のナメクジ・ホラー『スラッグス』とは違い(あれはあれでいいんだけどね)、ミステリーのコードも使ったウェルメイドな作品で、かなり満足した。まあ『スラッグス』と『闇の祭壇』(いずれもハヤカワ文庫・品切)の作者だから、基本的には変わっていないのだが、前半はせいぜいフォークで目玉をえぐり出すくらいで抑え、後半に本性を現していろいろ楽しそうに書いている。ホラーの骨格はしっかりしており、何の救いもなく終わるのもいい。クーンツもハトスンを見習って、こういうふうに書いてもらいたいものだ。売れなくなるだろうけど。
 さて、面白いのになぜ全部品切れになっているのか、ホラー帝国の地図と関連づけてみましょう。ホラー市は観光都市でもありまして、大きな遊戯施設があります(まあディズニーランドみたいなものですな)。ここにはミステリー共和国からも客が来るのですが、たいてい日帰りで、キング・パラダイスやクーンツ・ランドへ行ってすぐ帰ってしまいます。おかげで、ほかの遊戯施設には閑古鳥が鳴いているわけですね。とくに悲惨なのがイギリス地区。ジェームズ・ハーバートはほとんど品切れ、ラムジー・キャンベルなんて大作家なのに一冊しか訳されていません。キャンベルに関しては、初紹介があのリーダビリティを欠く処女長篇『母親を喰った人形』(ハヤカワ文庫・品切)だったのは不幸だし、何が訳されてもすぐ品切れになったような気もしますが(笑)、三冊くらいは邦訳があってもいいと思いますね。
 話変わって、「オールナイトロング3」を観た。このシリーズでは2がベストだが、3も悪くない。役者の変質度は物足りないけれども、後半は盛り上がる。いずれにしても、80年代の「ギニーピッグ」シリーズと見比べると(軽く言ってるぞ)、日本の低予算ホラーがいかに進歩しているかわかるでしょう。



 [1月9日]
 今回取り上げるのはマイクル・F・アンダースン『総統の頭蓋骨』(ハヤカワ文庫・品切)なのだが、このタイトルは思い切りネタバレなのではなかろうか。わざわざ古本屋で探して読んでも失望する凡作なので説明すると、原題は「The Unholy」、不浄なもの、邪悪なもの、とてつもないものといった意味で、訳題はいくらでも付けられるわけです。で、冒頭に意味ありげな箱が登場、その後も折にふれて現れます。つまり、「さて、この箱の中身は?」という書き方をしているわけですが、題名が「総統の頭蓋骨」、表紙にヒトラーと鉤十字がでかでかと描かれているのだから、よほど勘の悪い読者じゃない限り、ヒトラーの頭蓋骨が入っていることは丸わかりなんですね。ちなみに、この「秘密」が明かされるのは前半ではなく、368Pある本文の286P目です。少しハードボイルドや冒険小説も入っているので、そちらのほうの読者も釣ろうという苦肉の策なのかもしれませんが、せっかく作者が伏せてるんだから、これはあんまりでしょう。  さて、明日から初場所です。今場所の見所は、「33歳にして自己最高位に上がってきた前進山の新入幕なるか」「星誕期の十両復帰後3場所連続勝ち越しなるか」この二点でしょう。



 [1月10日]
 ほとんど読んでいなかったジェームズ・ハ−バートの『ムーン』(ハヤカワ文庫・品切)を読む。「モダンホラー強調月間」に入ってから絶版本ばかり取り上げているが、これはべつに意地悪をしているわけではない。モダンホラーは圧倒的に絶版が多いのだ。ご不審の方は、別冊幻想文学『モダンホラースペシャル』(アトリエOCTA・1500円)巻末のリストをごらんください。いかに死屍累々かわかるでしょう。  さて、これはウェルメイドな佳作。ボクシングに擬して言えば、序盤は悪夢でジャブを突き、たいして濃くはないけれどもミステリーのコードを用いてラウンドメイク、終盤に一気にラッシュをかけるというプロらしい戦いぶりで、読んで損はありません。短い章が多いスタイルも体質に合う。ただ、スプラッター・シーンはハトスンのほうが上かな。
 ボクシングと言えば、昔は「ボクシング・マガジン」を欠かさず読んでいたオタクだったのだが、最近は世界戦しか見ないただのファンと化していた。で、昨夜久々に坂本博之の復帰戦を見た。この出来なら三度目の正直は可能かもしれない。
 子供のころから「協調性に問題がある」と言われてきた人間なので、スポーツでもサッカー、ラグビー、バレーボールなどの団体競技は何が面白いのかよくわからない(野球は基本的に一対一だからOK)。要するに「みんなで力を合わせて頑張る」系は生理的に受けつけないのだ(おかげで会社では辛酸をなめましたな)。好きなのは相撲、マラソン、ボクシング、ゴルフといったおやじ系の個人競技。野球を含めて、たまに息抜きで書きましょう。ちなみに、ずっと中日ファンだったのだが、気合を表に出す星野が嫌いなので、まあ巨人さえ負ければOKです。阪神も野村じゃ「広島でやめときゃよかった古葉」になるでしょうな。川藤にしろって前から言ってるのに。
 話変わって、今日はコンビニであやうく赤飯を買いかけた。なぜと言うに、年収のほぼ半分に相当すると思われる印税が入ったのである(もっとも、年収自体が去年の半分以下になるのは確実なのだが)。そこで、心おきなく洋書のオーダーをほうぼうに出す(ヴァイオレット・ハント、メイ・シンクレアの怪談集などですね)。3万円は買っていないと思うが、計算するのはよそう。なお、私はbibliofind一本槍で、Amazonさえやっていない。
 新刊はFantasy Centre経由のAsh-Tree Pressしか買わないんだから、さっぱりしたものである。



 [1月11日]
 今日は読者のご要望に応えてチラーについて考えてみます。
 まず、Chillerを辞書で引きますと、「1.冷蔵室(係)、2.ぞっとさせるもの(物語、映画)、スリラー」と書いてあります。つまり、スリラーのあまり一般的ではない同義語ですね。ただ、私見によれば恐怖の質がスリラーとは微妙に違うわけです。
 なお、チラーについては、英米でもあまりどうこう言っている人はいないのではないかと思われます。リチャード・ダルビー編の「Chillers for Christmas」というアンソロジーがあるのですが、ド怪談も入っていて、いまひとつ方向性がはっきりしません。ですから、ここに書いているのは私が勝手に言っていることであって、べつに定説でも何でもありません。
 さて、地図を再現しますと、テラー・ホラー・チラー・スリラーと列車は進むわけです。このうち、テラーとホラーの関係は、チラーとスリラーの関係とパラレルです。テラーには怪奇小説と漢字で書くべき作品が多く含まれるけれども、チラーには漢字の恐怖小説が含まれます。要するに、テラーとホラーはスーパーナチュラルだからホラー帝国領ですが、スリラーはミステリー共和国領、チラーは小さな国境の町です。
 チラーはおおむね短篇です。スリラーの「ぞくぞくする感じ」は持続しますけど、チラーの「背筋がチリチリする感じ」は瞬間的なものです。ただし、恐怖度はスリラーより強烈です。
 で、肝心の具体的な作品ですが、まず国内では、曽野綾子の傑作「長い暗い冬」(筒井康隆編『異形の白昼』所収)がチラーでしょう。スーパーナチュラルの要素は皆無ですが、ほんとにチリチリします。それから、恐怖を喚起する純文学短篇も多くチラーに入ります。
 志賀直哉「剃刀」のラストなんてチラーでしょう。また、耕治人という地味な私小説作家が書いた短篇「天井から降る哀しい音」(『一条の光/天井から降る哀しい音』講談社文芸文庫)も怖い。これは説明しますと、生活能力のない私小説作家である主人公を長年支えてきた妻がボケてしまう。ある日の深夜、台所で音がする。不審に思って行くと、妻は「料理を作っている」と言う。ただ、テーブルに並んでいるのは、何も入っていない白い皿だけだった。この恐怖もチラーでしょう。
 長篇はあまり思いつかないのですが、一作だけ挙げれば吉村昭『仮釈放』(新潮文庫)でしょうか。この作家、ただの歴史小説家だと思ったら大間違いです。ご不審の方は、『星への旅』(新潮文庫)所収の傑作「少女架刑」をお読みください。
 いっぽう、海外はあまり適当な作品が思いつきません。短篇では、ロバート・H・ベンスンの「シャーロットの鏡」(『恐怖の愉しみ/下』創元推理文庫所収)はチラーかなと思ったのですが、べつにテラーでいいかもしれません。長篇では、ルース・レンデルやパトリシア・ハイスミスを考えたのですが、これまたスリラーかサスペンスに入れればいいでしょう。というわけで、ちょっと腰砕けなんですが、チラーについて書いてみました。
 さて、ついでに地図の補足をしましょう。チラーはろくに列車が停まらない小さな駅ですが、長距離バスが出ています。山間部へと向かい、盆地の町ニュー・ゴシックを経て、ファンタジーとの国境の町ダーク・ファンタジーを通り、首都のテラーへ到達するルートです。鉄道を引くほど利用客はいませんから、これはバスですね。
 また、ミステリー共和国に戻ると、スリラーの次は大都市サスペンスに停車します。ちなみに、スリラーとサスペンスのあいだの距離は短く、このあたりは拓けています。サスペンスは乗換駅で、一つは山間部の首都・本格パズラーに、いま一つは港町ハードボイルドに向かいます。ハードボイルドの次は北方の冒険小説(「きたかた」ではなく「ほっぽう」とお読みください)ですが、これはミステリーの衛星国です。ただ、この国は航空網が整備されていて、SFのスペース・オペラ、ファンタジーのヒロイック・ファンタジーなどに直通便が出ています。
 えー、なんだか疲れてきたので、このへんで。仕事しなきゃ。



 [1月12日]
 某マイナー出版社に渡してあった書評・エッセイ集の原稿が宅急便で戻ってきた。自分では編集もやっているつもりらしいトラブルメイカーの某文芸評論家H氏は「こちらから依頼しながら、お役に立てず申しわけありません」とだけそっけなく記していたが、これは編集者としては素人以下の対応ではあるまいか。実はこの企画、前にも某社で没になったことがあるのだが、そこではこちらが恐縮するくらいていねいに理由を説明してくれたのだ。印税の出ない出版社からの依頼に応え、配列までこちらで考えて原稿を渡したのに、最初だけ調子のいいことを言って二年間ナシのつぶてのあげくに下手な字で二行おわびを書いて返送しておしまいでは、いかに温厚な私でも怒りますよ(編集さんも忙しいと思うから、待たされても怒ったことなんか一度もないんだよ)。まあ売れないのは重々わかるから、それなりの手続きさえ踏んでくれれば(せめて、いきなり原稿を返送する前に電話かFAXくらいあってもいいでしょう。ゲラかと思って喜んだぞ)、私も快く納得したところなのだが。
 というわけで、一部で期待されていた「倉阪鬼一郎全仕事」は出ません。まあ来世紀のお楽しみに取っておきましょう。



 [1月13日]
 スティーヴン・キングを二桁読んでいないことに気づき(ジョン・ソールなら一ダース読んでるんだけど)、あわてて『ファイアスターター』(新潮文庫)を読む。率直に言って、これは好みではなかった。恐怖の質がホラーではなくスリラーだし、かと言って「ミザリー」のように感情移入できる話でもない(世間的には逆だったりして)。キングの超能力テーマなら「キャリー」のほうがはるかに上でしょう。どうもキングはホラー作家としては健全すぎるような気がするな(だから売れるのだろうが)。とりあえず『デッド・ゾーン』は積んでおこう。
 それにしても、超能力者というのはどうして善玉ばかりなのだろうか。超能力を悪用して善人を思い切り虐待する話を私は読みたいのだが。いずれ自分で書くかな。
 なにぶん昔から「もうちょっとでバルタン星人がウルトラマンにとどめを刺せたのに」などと悪者にばかり肩入れして見ていた子供で、その後人格を矯正する機会もなく、いまでは「勧悪懲善」じゃないとカタルシスを得られない立派な変態読者になってしまったではないか(ジェントル・ゴーストストーリーならOKなのだが、人間しか出てこないハートウォーミングは駄目なのだ)。ちなみに、去年の海外作品で最もカタルシスを得られたのはジャック・ケッチャム『隣の家の少女』ですね。これは読了後とってもいい気分で、しばらくにこにこしてました(笑)。



 [1月14日]
 今日は知り合いのHPを紹介します。まず、幻想文学会が誇る、知る人ぞ知るエッセイスト高井守君の「永久保存版のホームページ」。エッセイもさることながら、「最新情報の地層」は濃いですから要チェック。あなたの知らない世界がたくさん紹介されています。
 次に、まだ試用中なのですが、実弟・倉阪秀史の「倉阪環境研究室」。ちなみに弟は、東大経済学部卒業後、環境庁キャリア、メリーランド大客員研究員を経て現在は千葉大学助教授(環境経済学)、夫人は公認会計士兼会計学者でかわいい娘が一人いるという、兄とはまったく対照的な(笑)まっとうな人生を歩んでおります。率直に言って見て面白いものではないと思いますが、いちおう紹介まで。それにしても、プロフィールに「怪奇小説家『倉阪鬼一郎』の弟」と書いてあるのはけなげだなあ。私だったら隠すけど。



 [1月15日]
 みなさん、こんにちは。黒猫のぬいぐるみのミーコです。先生が「今日はおまえ書け」と言うので、先生の日常について書いてみます。
 先生はお出かけする日がいちおうお休みで、あとは毎日お仕事をしています。起きるのはだいたい朝の十時すぎ、午前中からお仕事します。勤め人が長かったから夜型にはならないのだそうです。
 一時すぎに近所の喫茶店へお食事に行きます。それから、コンビニで夕食を買って帰ります。ビデオ屋や古本屋に寄ることもあります。途中で猫を見かけた日は、「ミーコや、今日はおともだちがいたよ」と説明してくれます。
 夕方までお仕事して、おふろに入ってからごはんを食べます。コンビニで売っている袋入りの野菜とモヤシを入れただけの焼きそばとか、いなりずしとサラダとか、とても質素な食事です。太らないのは当たり前です。
 七時前になると眠くなってきて、「ミーコや、ちょっとおねんねしようね」と言って、三十分から一時間近く寝ます。七時すぎに電話して出なかったら、ミーコと一緒に寝てると思ってください。
 それから、ワープロを移動してまたお仕事です。夜は腹ばいになって書くんです。なお、先生のパソコンはインターネット専用で、執筆はワープロ専用機を使っています。ハードディスクとモデム内蔵の上等です。パソコンはフリーズしたりクラッシュしたりして危ないから嫌いだと言ってます。
 夜のお仕事は十時から十一時くらいでやめます。先生はドラマとか夜の番組はあまり見ません。ただ、なぜか「愛の貧乏脱出大作戦」だけは毎週見ています。
 お仕事が終わるとインターネットをします。十一時前後に電話が通じなかったらネット中です。それからご本を読みます。週に二日くらいは、夜のお仕事は推敲とか構想作りとか翻訳の下調べとかなので、もっと早くから読みはじめます。ときどきカラオケの練習もします。目に見えて高音が出なくなって歌唱力も落ちたので、芸域の広さで勝負するのだと言ってます。
 遅くとも一時半には読書をやめて、ミーコを肩に乗せて主にホラービデオを観ながらお酒を飲みます。ヘンな映画ばっかりです。だって、おともだちが出てきたら必ず殺されるんだもん。それで、「ミーコや、おねんねの時間だよ」と言って、二時すぎに寝ます。おかげでミーコはおひげが曲がってしまいました。
 これが先生の日常でした。じゃあ、またね。バイバイ。