[99年3月上旬]



 [3月1日]
 今月は海外SF強調月間なのですが、『幻想文学大事典』を頭から読んでいるため始動が遅れます。なお、同事典について補足しておきますと、原題はEncyclopedia of Horror and the Supernaturalで、限りなく『ホラー大事典』に近い内容です(トールキンが抜 けているように、ファンタシィ系には弱い)。個人的には、これで「無人島へ持っていく本は?」というアンケートが来ても怖くないなと思っておりますが。いずれジャック・バーザンの序文から箴言を抜粋しましょう。



 [3月2日]
 先月の23日の日記で紹介した我孫子武丸さんによるホラーの定義「ネガティヴなスーパーナチュラル」に付随して、最近盛り上がりを見せている掲示板に「ポジティヴなスーパーナチュラルはファンタジーなのでしょうか」という質問が寄せられました。大ざっぱにそう考えていいと思いますが、ここで問題となるのがダーク・ファンタジーです。まあ鵺的な呼称なんですけど、いちおうサブジャンルと考えると、ジル・ドゥルーズを援用すればわかりやすい。といっても現代思想には義理がないので、念頭に置いているのは『マゾッホとサド』です。同書に「サディズムには固有のマゾヒズムがあり、マゾヒズムには固有のサディズムがある」という分析がありまして、これは言葉を置き換えても使えるので重宝なんですよ。
 要するに、ダーク・ファンタジーは「ポジティヴに固有のネガティヴが機能しているスーパーナチュラル」で、ヒロイック・ファンタジーのようにポジティヴ一本槍とは違うわけですね。逆に、「ネガティヴに固有のポジティヴが機能しているスーパーナチュラル」はキング以降のサブジャンルとしてのモダンホラーで、それが証拠に冒険活劇になったり愛と正義が勝ったりするわけです。これとは別に「笑い」という要素もホラー・ジャンル内では「ネガティヴに固有のポジティヴ」でしょう。違う構造のものに遭遇した場合、恐怖するか笑うかは紙一重ですから。
 さらに、「ネガティヴなスーパーナチュラル」がホラーなのですが、ネガティヴを「後ろ向き」と訳すと、怪奇小説になるわけですね(笑)。このあたりのニュアンスは説明が難しいのですが、「怪奇小説は隠者文学である」と言えばなんとなく伝わるような気もします。
 どうもやみくもに話を混乱させているので、このへんで。



 [3月3日]
 今日は日記です。
 四時から神保町で廣済堂出版のSさんと打ち合わせ、五月に出る書き下ろし長篇ホラー『死の影』の初校ゲラを受け取る(最初に残念なニュースを聞いたのだが、事情があってここには書けません)。装幀はトレヴァー・ブラウンさんを希望しているので、画集を見せてもらったけれども、完全な変態かもしれない(笑)。「これはまずいですね」「使えませんね」と消去していくと自ずと候補が限られてくる(新作の予定なのですが)。変態といえば、谷弘児さんから障害者ロックと障害者プロレスのビデオが届いたのだが(べつにくれとは言ってないのに)、そんな鬼畜な人には見えないんだがなあ。人のことをとやかく言えないような気もするけど。
 さて、鬼畜といえば『ホラーウェイヴ02 友成純一&鬼畜スペシャル』(ぶんか社・1400円)が出ました。うーん、こんなことをやってしまったのね(笑)。誤解する読者がいるかもしれないので記しますと、伊佐名鬼一郎の小説は小生が書いたのではありません(「猟奇世界」の掲載号は古書展のガラスケースで見かけたことがあるんだがなあ。ほほほほ)。私は控えめに書評を一本書いただけです。それにしても、風間健司がジャック・ケッチャムの書評って、ことに紛らわしいな。なお、感想は後日。
 そのあと、五時から祥伝社のSさんと打ち合わせ。短篇のゲラを受け取る。ゲラがいっぱいあるひな祭りって楽しいな。今週は古書展にも行かずにお仕事しよう。



 [3月4日]
 芦辺拓・有栖川有栖・小森健太朗・二階堂黎人編『本格ミステリーを語ろう[海外篇]』(原書房・1500円)を読む。みなさんずいぶん読んでいるものですね。マイクロフト・ホームズやクイーン警視を知らない一部の出来の悪い評論家に文句が出るのも当然でしょう。それに、よく細かい筋を憶えているものだ。私の場合、小説の記憶は右脳に蓄積されるらしく、自分が書いた小説の筋もしばらくすると忘れてしまう(苦笑)。
 さて、本書はミステリーの人が取り上げるのが筋でしょうが、ホラーの人(正確にいえば、控えめに見積もっても八割強がホラーで、一割がミステリー、残りがSF)からもひと言。まず、探偵小説の起源に関してですが、やはりゴシック・ロマンスについての言及がないのは残念(できれば12月9日のエッセイもご参照ください)。代わりに初めて知った中国起源説などが紹介されていますけど、そんなことを言うなら諸子百家の「公孫龍子」だってミステリーだし、なんだかちょっと首をかしげますね。むしろポオのすぐ前の十八世紀に着目したほうが益になるような気がします。この時代にメタモルフォーズ家具が流行っているんですが、これなんか発想がもろにミステリーでしょう。このあたりを学際的に研究するミステリーの人がいると面白いのですが。
 それから、例によってフェアかフェアじゃないかという議論がありますが、なぜミステリーが公正さを求めるかというと、近代市民社会や民主主義や都市空間などをバックボーンとしているからですね。ミステリーには背負っているものがあるんです。で、その射程を見極める能力を持っていたのが、いま訳しているT・S・ストリブリングなんですね (実は調子が出ないので逃避しているのだ。こんなことでいいのか?)。今回も心霊殺人を扱った異常作があるのですが、基本的にはガジェットであるカーの怪奇趣味とは違う (あれはあれで良いものですけど)。また、私のような近代社会に違和感を抱いているホラー作家とも違う。つまり、異常な題材を扱うのは体質ではない。ストリブリングはミステリーの射程を知力によってとらえていたがために異常な部分に足を踏み入れてしまった特異な作家なんですよ。普通のミステリー作家が民主主義などを所与の前提としているとすれば、ストリブリングは、近代や民主主義や論理は汚れている→前近代やファシズムや非論理のほうが魅力がある→しかし、現実問題としては汚れているもののほうがベターである、という過程を経て同じところへ戻ってくるわけですね。そのあたりにとても魅力を感じます(と、偉そうに書いておりますが、舞台裏を明かすと、編集のFさんから『カリブ諸島の手がかり』の翻訳依頼があるまでストリブリングなんて名前も聞いたことがなかった。これは『赤い右手』の夏来健次も同じはず。やはり名伯楽と言えましょう)。
 同じように頭が良すぎる作家にピーター・ディキンスンがいるんですけど、「盃のなかのトカゲ」は結局何も起きないというのが定説で、本書でも二階堂さんが同様の発言をしていまう。あれは「あの女が実は×××だった」というのが真相で、そのための伏線を延々と張っているというとんでもないことをやってるんですよ。私はとても感動したのですが、さすがに面白いとは言いません。
 それから、小森さんがクイーンの「第八の日」を持ち上げていて、仲間がいて良かったなと思ったのですが、実際に書いたのはスタージョンなのでしょうか? 『クイーン談話室』にはデイヴィッドスンと書いてあったんだけど。次の書き下ろしにこの話がちらっと出てくるので、どちらかはっきりしてもらいたいのだが。
 というわけで、掲示板がホラーばかりで福井君が寂しそうなので(笑)ミステリーも振ってみました。本格の定義とかどうですか?



 [3月5日]
『ホラーウエイヴ02』を完読したので簡単に感想を書きます。
 まず小説では、やはり牧野修さんの「グノーシス心中」がいちばん良かった。配合の妙ですね。「ヴェニスに死す」とか「オールナイトロング2」とかいろいろ思い浮かべたけれども、また外しているかもしれない。特集がらみでは、何と言っても村崎百郎「フリークス・キラー」が迫力。おかげで友成純一もリチャード・レイモンもかすんでしまった。本物はすごいな。伊佐名鬼一郎「蚯蚓畸譚」は、お話は結構なのだが、昔のエログロ作品にしては文章が上手すぎる(笑)。潮寒二の文体模写とか懐メロネタとか、もっと凝りまくってもらいたかった。
 さて、風間賢二「スプラッタパンク現象」は、例によって「静かなホラーより騒々しいお下劣なホラーを」というコンセプトですね。紀田順一郎氏のようにスプラッタを蛇蝎のように嫌っている上の世代には有効なのかもしれないが、私や掲示板に来ている東雅夫・中島晶也両氏など風間氏より下の世代は両方カヴァーしてるんだから、なんだかシラケるんだよね。
 続いて、貴志祐介氏のインタビュー。とても誠実で才能あふれる方なのだが、やはりホラー作家ではないということがよくわかる。「いまや時代そのものがホラー」という発言がありますが、これは一般作家の感性です。で、ホラー作家はどう反応するかというと、「鬼畜作家座談会」に飛びまして、綾辻行人さんが「和歌山の毒カレー事件は吐き気がするほどつまらない。美意識のかけらもない」と発言しています。これが正しいホラー作家の感性なんですよ。つまり、日常的な恐怖はホラーではない。美学がなければいけないんです。これは上品という意味ではなく、スプラッタにはスプラッタの、鬼畜には鬼畜の美学があるんですよ。できるだけ残酷に救いなく殺してあげるのがホラーにおける愛であって、一般的な愛などを持ちこむのはお門違いもはなはだしい(まあまあ興奮しないで)。
 ということは、ホラー作家ではないと公言している鈴木光司氏を含め、日本で最も売れているホラーはホラー作家じゃない人が書いているわけですね。頑張って書かないといかんなあ。



 [3月7日]
 T・S・ストリブリング『ポジオリ教授の事件簿』(翔泳社)の訳稿が完成。明日送れそうだ。担当のFさんは翻訳業界で二番目に厳しいとささやかれている編集者だから(本人があえて否定しないところが怖いが)、これで終わったと思ったら大間違いなのだが、とりあえずひと息。翻訳家は当分休もう。



 [3月8日]
 訳稿を郵送し、三年ぶりにかかっていた歯の治療を終え、短篇をメールで送る。「異形コレクション」は、ホラーを中心とする異形性、テーマ、短篇としての出来、この三つのハードルをクリアしないといけないのだが、これなら大丈夫かなあ。あとは長篇のゲラとあとがきに手を回し、書き下ろしの追い込みですね。
 ブックス・エソテリカ24『妖怪の本』(学研・1200円)を購入。今回は「幻想文学」編集長も登板、いつもながらていねいな作りです(学生時代からいろいろ貸しがあるM君、もっと気を入れた紹介をするから、次の『幽霊の本』から送ってよ)。



 [3月9日]
 あとがきの下書きを執筆。なんだか書評みたいだな。あとがきのないすっきりした本を一度出してみたいと思っているのだが、どういうわけかいつも頼まれる。私のあとがきは面白いのかしら。「自分の小説について解説するのはみっともない」というのは正論だと思うし、あまり書きたくはないのだが(と言いながら、次も書くような気がするぞ)。
 ちなみに『死の影』はちょうど十冊目の著書で、初の文庫本です。わーい。



 [3月10日]
「海外SF強調月間」第一弾は、だいぶ前に訳者から送っていただいたのに未読だったワイリー&バーマー『地球最後の日』(創元SF文庫・620円)。破滅SFは、幻想小説に近いけれどもアンナ・カヴァン『氷』(サンリオSF文庫・絶版)を読んでいるので、ちょっと一般向けで私には食い足りなかった。しかし、訳文は上々。なお、『幻想文学大事典』と並行して進めているため、四月上旬まで期間を延長します。とりあえず「九百人のお祖母さん」がむちゃくちゃ面白かったR・A・ラファティを読むかな。



 [3月12日]
 今日は日記です。
 四時に時事通信社のIさんと打ち合わせ、『活字狂想曲』の見本を受け取る。菊地信義さんの上品な装幀です。都内大手書店への搬入は来週の水曜日、来週末には平積みになりますのでよろしく。それにしても、書店のどのコーナーに置かれるのか、そもそも売れるのか、まったく予測がつかないな。まあ担当編集者以外の社内全員が「初版どまり」と予想した『赤い額縁』が再版になった例もあるから、増刷がかかればいいのだが。
 そのあと、夏来健次快気祝いに参加。まず、書店で待ち合わせた橋詰久子さんとバッタリ会った福井君とともに、高田馬場の喫茶店へ。夏来健次は痩せているものの思ったより元気そうだった。メインはもちろんカラオケです(七時半から新宿パセラ)。出席者は敬称略・カッコ内デュエット曲で、主賓の夏来健次(雨の中の二人など)、東雅夫(北ホテルなど)、高瀬美恵(しあわせ未満など)、橋詰久子(ゆきずりなど)、大森望(マスクト・パーティ)、小浜徹也(かりそめのスウィング)、迫水由季(DNA)、三村美衣、さいとうよしこ、東京創元社のIさん、Mさん、福井健太、黒猫のぬいぐるみのミーコちゃん(疲れて寝てます)。最近、何を歌っても邪悪になると言われているので、かわいく歌う練習をしようと思い川本真琴の「桜」を入れたのだが、「サイコホラー」とか「二度とやらないでほしい」とかさんざん言われる。創元勢が早めに帰ったあと、二時ぐらいまで延長。夏来健次が持参した幻想文学会ゆかりのチャンピオン・ベルトは、いちばん邪悪に歌ったという理由でいったん私に押し付けられる。
 そのあと、屋台を経て五時まで居酒屋で飲む。ここは途中から大森モードで、書けない話が多かったような気がするな。やはりいちばん面白いのは夏来健次でしょう。大森夫妻がタクシーで帰ったあと、さらに七時まで喫茶店で語る。ここでは有意義な議論があったように思われる(私のほかに起きて参加していたのは、東、福井、高瀬、橋詰)。途中で高瀬さんにチャンピオン・ベルトを譲り、厄介払いができたと思ったのだが、最後になっていらないとぬかすので、結局引き取り手のないまま元の夏来健次に戻ってしまう(笑)。というわけで、チャンピオン・ベルトは新潟の夏来家の床の間で永久保存されることになりました。