[99年3月下旬]



 [3月16日]
 このところ空白の日が増えてきましたが、これはべつに人殺しとか書けないことをしているわけではなく、まじめにお仕事をしていると考えてください。この三日間、書き下ろし長篇を頭から読んで伏線を張り直したり、『死の影』のゲラを見たり、自分の小説ばかり読んでいました。続けて読むと疲れるな。だいたい、あまり前には進んでいないから、平均すると一日数枚しか書いていない。翻訳が終わったら小説が飛躍的に進むというのは、文筆専業になったらいっぱい本が読めるというのと同様の幻想だったかもしれない。
 そんなわけで、いつもは取り上げない資料用の本を一冊。デビッド・ジョセフ・ウィークス+ケイト・ウォード『エクセントリックス』(青土社・3200円)は、帯に「正常と異常の間にゆれる<変り者たち>の実像を科学的に調査した画期的な心理学」と書いてあるとおりの内容で、実例の部分が楽しい。また、巻末に「エクセントリック傾向自己判定テスト」という付録があったから、さっそくやってみました。結果は、66点以上が異常のところ76点。うーん、バランスのとれた見方をする温厚な常識人だと思っていたのだが、これまた錯覚だったかもしれない。僕って邪悪なのかしら?



 [3月17日]
 このところ掲示板がとみに盛り上がりを見せているので、日記にはあまり内容がありません。今日は「新刊展望」4月号が届きました。変なエッセイが載っています(邪悪な写真付き)。
 それから、今月の新刊を見ると『99本格ミステリ・ベスト10』(東京創元社)は19日発売と書いてありますね。その三つ隣に北上次郎のエッセイ集の予告があって、「ミステリー批評の第一人者」と紹介されているのが実におかしい。個人的な思い入れで「ミステリー」という表記を使っていたのだが、「ミステリ」に変えようかな。



 [3月18日]
 昨日は珍しく13時まで寝ていたのだが、今日は7時に目が覚めたので、すぐ気合を入れてお仕事に入る。「白い館の惨劇」はいよいよ大詰め、あとは1章半を残すのみ。それにしても、世間的に見れば大長編でも何でもない分量なのに、パーツが43もあるな。まあしかし、29だった「赤い額縁」より読みやすいかもしれない(当社比というやつですね)。
 『活字狂想曲』が出たと思ったら、週刊誌からインタビューの依頼が来てうろたえる。私とは無縁の世界だと思っていたのだが……。写真も撮られるらしい、困ったな。本質的にはとてもシャイで口数の少ない人間なので、人に会う際にはそれなりに気分を盛り上げてから臨まなければならない(その点、電話は対処できないから嫌いです。よほど用事がなければ自分からはかけませんし、無愛想な応対をしてしまうこともあります。頭の調子が悪いときは出ないこともあります。申し訳ありません)。これをやりすぎるとべらべら余計なことをしゃべったり、邪悪になってしまったりするわけですね。インタビューだとモードがむずかしいなあ。盛り上げすぎてエレカシの宮本みたいにならないようにしよう。



 [3月20日]
 「白い館の惨劇」をいちおう最後まで書き上げる。「赤い額縁」より百枚くらい長いから、私にとっては大作です。
 そのあと、東雅夫氏が講師をつとめる池袋コミュニティ・カレッジのホラー講座にゲストとして参加。今回は「『幻想文学大事典』とホラー」というテーマで、編集にあたった必殺クラシック・ミステリ&ホラー仕掛人のFさん、編集委員で翻訳家の西崎憲さんもゲストとして招かれました(要するに講師がタダで呼べる人間ですね)。この座談会の模様は次号の「幻想文学」で紹介されます(何をしゃべったか覚えてないな)。
 二次会は生徒さん全員が参加して近くの居酒屋。キラ-クーチとかロルトとか、ふだんは耳にしない作家の名前が飛び交う。講師が濃ければ生徒も濃くなるわけですね。若く美しいM・R・ジェイムズの愛読者とか、常識では考えられない人が平然と存在しています。あの『幻想文学大事典』にサインを求める人が二人もいましたから(笑)。
 三次会はビッグエコー。さすがに数が減って、東・西崎・私に生徒さん三名の計六名。みんな帰ると言うから「Automatic」「二億四千万の瞳」「海峡」「ピアニシモ」の四曲のみ、邪悪になる前に終わってしまう。やっぱり吉幾三がいちばん向いてるかも。ちなみに、池コミでポップスを教えている西崎さんのシャウトする「魔法使いサリー」は絶品です。さすがにプロは違うな。



 [3月22日]
 掲示板に泉鏡花と内田百間(正しくは門構えに月)の話題が出ているので、私からもひと言。議論を簡潔にまとめると、中島晶也氏が平井呈一の「鏡花は草双紙的である」という趣旨の発言を引用したうえ「鏡花より百間のほうが表現技巧が優れているのではないか」と問題提起をしたところ、東雅夫氏が「そんなことはない。現代作品でいえば、皆川博子『ゆめこ縮緬』(鏡花派)と小池真理子『水無月の墓』(百間派)の優劣を論じるようなものだ」と反駁しているわけですね。実にマニアックな議論ですが(笑)、本題に入る前にひとつ付言しますと、鏡花・百間折衷派の代表的な現代作品として森真沙子『東京怪奇地図』があります。
 さて、鏡花と百間では創作態度が正反対です。鏡花は「むかうまかせ」(同名のエッセイのタイトル)で書いておりました。要するに自動筆記ですが、シュルレアリストとは背負っているものが全然違うので、まことに異常なテクストとなって現れています。いっぽう、百間は「筆ヲ齧ミ稿ヲ裂キテ」(『旅順入城式』序)執筆しておりました。これは両者の小説の作品数の違いが如実に証明しています。
 で、どちらの表現技巧が優れているかという問題ですけど、これはまあ東氏の言うとおりではあるのですが、どちらが勉強になるか、より再現可能かという問題にすり替えると、自分が百間派であることを割り引いても百間に軍配が上がるのではないかと思います。鏡花や皆川さんのある種の小説は知的な作業を経て再現できるものではない。体質を同じくする天分に恵まれた作者が憑依めいた書き方をしたら凄いホラーになった(本人にはホラーという意識はない)ということは期待できるでしょうけど、少なくともホラーのお手本として薦める気にはあまりなれません。鏡花=過剰、百間=欠落と表現技巧は大別されます。要するに前者は異常なパワーで押しまくり、後者はむだな描写を省いて行間や書かれていない部分を読ませるわけですね。中黒入りのモダン・ホラーもしくはモダン・ゴーストストーリーの要諦はやはり後者で、これも向き不向きはあるし伝わらない読者には伝わらないんですけど、ある程度学習によって再現できるのではないかと考えます。このページを読んでいるような方には、まず百間(および岡本綺堂)のほうをお薦めしたいと思います。



 [3月23日]
 二時半から千駄木の喫茶店で「週刊朝日」のインタビューを受ける。フリーライターの朝山実さんにプロのカメラマンが帯同という物々しい布陣、「幻想文学」とは雰囲気が違う。朝山さんは『活字狂想曲』を読んだだけで、ホラーはまったく読まない方らしく、いまひとつ話がかみ合わない。案の定、途中でこう言われてしまう。
「インタビューは初めてですか?」
「いえ、マニア雑誌ではありますけど」
「マニア雑誌とどちらがしゃべりやすいですか?」
「そりゃもうマニア雑誌のほうが……」
 という感じで、いちおう一時間しゃべったんだけどなあ。それに「『赤い額縁』はヒネた読者向けで、一般向けじゃない」とか、今後は小説とエッセイを並行して書くつもりかという問いに「僕は新聞も取っていないし現実にあまり興味はないから、小説に専念したい」とか、考えてみたら何も売りこんでいない(笑)。これで良かったのだろうか?
 そのあとは三カ所で写真撮影。安いカメラで数枚撮っただけの「幻想文学」とは全然違う。「自然に人を待っている雰囲気で」とか「鼻筋はこちらで目線だけください」とか、細かい注文付きで数十枚も撮られたので疲れた。それにしても、とてもかっこいいカメラマンのYさんはほとんど左側から撮影していたなあ。いままで右側のほうがいいかなと思ってそうしていたのだが、プロの目は違うようだ。いずれにしても、夏来健次撮影の先日のカラオケの写真とは別人のようなものが載るでしょう(笑)。発売は再来週の火曜日の予定です。



[3月24日]
「小説NON」4月号が届きました。ホラー・ニューウェーブ特集に「天使の指」という50枚の短篇を寄稿しています。題名から察せられますように、ファンタスティックで心温まるお話です(嘘)。さほど間を置かずに『さむけ』というホラー・アンソロジーに収録されるのですが(去年の『舌づけ』みたいな感じですね)、今月号は菊地秀行特集なのでこちらもよろしく。ちなみに表紙と目次は、右に牧野修、左に田中啓文、これじゃまるで漫才をする人ですね(笑)。やはりお笑い系なのだろうか。
 うーん、「ダカーポ」からもインタビューの依頼が来たんだけどなあ。ひょっとして、最初で最後のベストセラーに……なるわけないよな。



[3月25日]
 R・A・ラファティ『九百人のお祖母さん』(ハヤカワ文庫SF)を読む。これは優れた短篇作家ですね。久々に目次に〇をつけながら読みました。だいたいSFは(ミステリもですが)ホラーのバイアスをかけて読むほうで、「ソラリスの陽のもとに」や「火星年代記」は面白いけれども「夏への扉」は退屈という読者なんですけど、その点ラファティはOKです。もっともホラー自体が配合されているわけではなく、恐怖や怪奇の裏返したるユーモアやナンセンスが前面に出ているのですが、これはコードを換えるとすぐホラーになるんですね(例えば表題作)。しかも、SFらしいガジェットはあるものの、せんじつめれば文系なので私にはとっつきやすい。ほかの短篇集も読もう。目次に〇をつけた作品は次のとおり。「九百人のお祖母さん」「巨馬の国」「時の六本指」「カミロイ人の初等教育」「蛇の名」「町かどの穴」「他人の目」。



[3月26日]
 今年書く予定の長篇のうち、プロットができていなかった集英社のホラーの構想をまとめ終わったと思ったら、その瞬間に出版芸術社の社長さんから電話がかかってくる。まるで見ていたかのようなタイミングだった。書きますから。
 散髪をすませたあと、サンシャインシティ・アルパ古本市の初日へ。基本的に何もない古書展だったが、新刊で出たばかりの花輪莞爾『悪夢五十一夜』(小沢書店・5600円!)を4千円で買えたのは収穫だった。このうち二十四篇は奇跡的に新潮文庫に入ったものの大方の予想どおりすぐ絶版になった『悪夢小劇場』『海が呑む 悪夢小劇場2』に収録されているので、古本屋で見かけたら迷わず買いです。それにしても、シリーズの新刊の定価が十倍に跳ね上がる人って珍しいかもしれない。まあ私が絶賛する作家だから仕方ないような気もするけど。ほかは、秋山裕美『拷問全書』、ロバート・D・ケッペル『死体を愛した男』、谷川渥『鏡と皮膚』といった穏当な本ばかりですね。
『99本格ミステリ・ベスト10』(東京創元社・840円)が出ました。まず、ひとつ文句があります。去年も気になったのですが、P3に「本格に拘泥することに、特権的な意味があるわけではない。同じようなこだわり方が、ハードボイルドやホラーについても可能なはずだ」と記されています。ハードボイルドはミステリのサブジャンルですが、ホラーは独立したジャンルですから、一緒にしないでもらいたい(笑)。歴史的な目で見れば、ミステリのほうがホラーのサブジャンルなんです。で、こういう人だからこそ「赤い額縁」を書くわけですが、座談会の末國さんのように反応していただけるととてもうれしいですね。島田理論の話も出ているので簡単にまとめますと、十八世紀のゴシック・ロマンスは、ホラス・ウォルポールのように怪異が前面に出ているものと、アン・ラドクリフのように怪奇的な要素はあるものの合理的な説明がつき現実に還元されるものに大別され、前者がホラー、後者がポオの創始したミステリに発展するわけです。ですから、島田理論はミステリ以前のゴシック・ロマンスと構造的には変わらないんですね。しかも、どうしてすべて現実に還元されなければならないか、理論的根拠がない。コード型のミステリが近代都市社会や民主主義を当然のごとくに背負っているように、所与の前提として論じられているのです。
 と、かような不満を抱いていたときに遭遇したのが<謎−解明−謎>の笠井理論で、最後の高次の謎にホラーを配合すればすごい傑作になるぞと思ったわけですね(まだうまく書けないんだけど)。だから、座談会で笠井さんが「これは現代本格の先端的な意識を掴んだ上で書いている」と発言されているのはそのとおりです。ご自分の理論のヴァリエーションですから(笑)。
 最後に、投票してくださった方、ありがとうございました。ひそかに13位を狙っていたら13点だったけど(笑)。それから、インターネット小説大賞もありがとうございました。三作連続でホラーのベストテンに入ったから、今年も記録を伸ばすぞ。



[3月27日]
「小説CLUB」5月号が届きました。「おじいさんの失敗」という短篇を寄稿しています。なお、これはホラーではありません(笑)。じゃあ何かと言われると困るのですが、いちおう初の童話です(半分ホント)。この文芸誌は八割がポルノなんですけど、まともなものも載っておりまして、毎月ではありませんがショートショート欄には異形コレクションのメンバーも登板しています。私が世間的には無名のときに(まあ現在もそうだが)エッセイの依頼が来たし、新人を発掘しようという意気込みは感じられるのですが、いかんせんこの雰囲気だからエロ雑誌にしか見えないのはつらいところ。
 もうひとつ盲点になっているとおぼしいのが「週刊大衆」の書評欄。助平なおじさんが読む週刊誌なのですが、日下三蔵が書評欄を担当していて濃いミステリもかなり採り上げています。毎週P134あたりに載っていますから要チェック。



[3月28日]
 短篇の創作ノートを整理する。数年経っても一行から発展しないネタを捨て新たに追加、30強あれば当面大丈夫だろう。長篇も三つプロットのアウトラインをまとめ終え、なんとか今月中に起稿できそうなのだが、また面倒なものばかり書こうとしているような気がするぞ。
 久世光彦『怖い絵』(文芸春秋)を読む。さすがに年寄りの書くものはいいですね。小説と自伝的エッセイと絵画分析が三位一体となった連作です。ことに「『死の島』からの帰還」はかなり怖い。絵の分析に限れば「『二人道成寺』の彼方へ」の甲斐庄楠音。この絵はほんとに怖いな。



[3月29日]
 限りなくアパートに近いマンションの更新を済ませる。千駄木というのは世間的には高級住宅街だから「いいところにお住まいですね」「家賃はどれくらいですか?」などとたずねられるのだが、谷底も少しあるわけですね。というわけで、夢の2DKは先送りにし、家賃6万5千円の部屋で辛抱しよう。
 書き下ろしの長篇を三つ起稿し、次の短篇も書きはじめる。こんなにほうぼう手をつけてどうするというのだ(笑)。まあ、その日に興が乗るものから進めていくことにしよう。目一杯やっても一日20枚書けない作家だから、とりあえず10枚をクリアするのが目標だな。



[3月30日]
 十二時から千駄木で幻冬舎のSさんと打ち合わせ。「白い館の惨劇」と秘密の原稿を渡す。読んでいただいてから手を入れる作業がありますから、刊行は正確には未定なのですが、6月か7月の予定です。
 笠井潔『探偵小説論』(東京創元社)を読了。こういう本を読むと「幻想文学」53号の懐メロ論で燃焼しつくした観のある三流評論家の血がまた騒ぎますね(笑)。そこで、骨子となっている「大量死−大量生」理論を援用してホラーについて考察してみます。
 ごく大ざっぱにホラーの歴史区分をしますと、十八世紀後半から十九世紀前半はゴシック・ロマンスの時代、十九世紀後半から二十世紀前半はゴースト・ストーリーの黄金時代、二十世紀後半はモダンホラーの時代ということになります。このうちゴースト・ストーリーの黄金時代については、スターンというアンソロジストが1898年から1911年までとさらに限定しています。第一次世界大戦の前で黄金時代が終わっているわけですから、笠井理論にはいたって都合がいい(笑)。第一次世界大戦における大量死がロマン主義的な想像力を破壊し、代わって探偵小説が洗練された。これはジャンルとしての探偵小説に関する限り、非常に説得力があります。しかしながら、ゴースト・ストーリーが探偵小説に進化した部分もあるけれども、独自の進化も遂げており、その部分に関しては大量死の理論を援用できるのです。化けて出るのも幽霊や怪物に殺されるのも「特権的な死」ですから。なにぶん三流の評論家なので話がいきなり飛びますが、現代日本における新本格とホラーには共時性があります。これは「大量生」をキイワードにすると、あるいはうまく解けるのではないかと思います。マクラに振るなら、純粋なホラーではないですが、去年出た大石圭「死者の体温」でしょうか。凡庸で均質な「死体」を特権的な「屍体」に変えようとするエトスにおいては、両者は共通しているように感じられますね。「ゴシック小説家やロマン主義者は、あえて過去の遺物に執着する反時代性において、宿命としての近代に批評的であろうと努めた」というくだりがありますが、「新本格ミステリ作家とホラー作家(むろん、どちらもすべてではない)は、世間的には過去の遺物と目されていたものにあえて執着する反時代性において、愛と平和に満ちあふれた凡庸な現代に批評的であろうと努めている」とも書き換えられるのではないかと思います。
 で、私はホラーとミステリのハイブリッドを手がけているわけですが、これはむろん作家的本能の赴くままに書いている部分が大半なんですけど、現代本格の問題を考えている部分もあります。探偵が吸血鬼というのは後期クイーン問題に対する私なりの解答です(笑)。また、ひょっとしたら私はすごく反動的なことをやろうとしているのではないかと本書を読んで考えさせられました。ミステリ共和国を属国にするべく、はるかに小さいホラー帝国から殴り込みをかけてきた頭のおかしい将軍とか(笑)。まあ民俗学的に言えば鬼はマレビトですから、名は体を表しているのかも。要するにミステリという美少女をホラーで美しく殺してあげる(「火刑法廷」のコードはミステリですから、もっと複雑なコードを用いる)というコンセプトなんですけど、お多福を殺しても仕方がないからなあ。そのあたりが課題ですね。



 [3月31日]
 神保町で「ダカーポ」のインタビュー。またしてもライターさんが私の小説を何一つ読んでいない方だったので、校正の仕事を中心とした平板なインタビューに終始する。「エッセイと小説は違いますか」とたずねられてもねえ。べつに私小説を書いてるわけじゃないんだから。
 そのあと、朝松健編の書き下ろしクトゥルー・ジャパネスク・アンソロジー『秘神』(アスペクトノベルス・1150円)など、いろいろ新刊を購入。同書はまだ笹川吉晴氏の評論を読んだだけなのだが、笹川君ってこんなにホラー者だったのかとびっくり。まあ日下三蔵と同じゼミで卒論が友成純一だった人だから驚くことはないのかもしれないが。少し引用します。「<ホラー>とは<怪奇>という想像力の光を照射することによって、現実社会の陰に隠された異貌を束の間浮かび上がらせるためのシステムである」「ホラーとは実のところ、世界と折り合っている人間が<恐怖>を感じるための恐ろしい物語であるというよりも、世界に疎外された人間の<孤独>と、束の間世界の崩壊を目撃する<歓喜>を謳った切ない抵抗の物語なのである」。かっこいいじゃん!